精神病理学研究室

精神病理学とは、人の“こころ”、および“こころ”の病を扱うための固有の学であります。“こころ”というものは、すぐれて主観的なものであるため、直接扱うことは難しいのですが、精神病理学では、患者さんによって語られた「ことば」あるいは現れた「行動」という客観的な事実に基づいて、患者さんの“こころ”の理解を試みます。そして、“こころ”を護り回復させていくための方法について考えます。精神病理学は、精神医学の基であり、症状論、病態論、治療回復論を深めていくためには欠かせない学であります。精神病理学では、おおよそ人の全ての営みを対象とするため、特に人文・藝術領域に学ぶところが多く、古今東西の叡智を紐解くことをとても大切にしております。

近年、自然科学やテクノロジーの進歩は凄まじく、脳科学は“こころ”の解明まで目論んでいるようでありますが、脳科学によって脳が解明されることはあっても、“こころ”が解明されることは方法論的にありえません。今後、脳科学が進展するにつれて、脳に関する知見は膨大となってくると思いますが、“こころ”とどのように対応づければよいのかについて考える必要が出てきます。このとき、“こころ”を記述するための新たな方法論について模索するなど、精神病理学がやるべきこと、精神病理学にしかできないことが、ますます増えてくるものと思われます。
精神病理学は、自然科学と相反するものではありません。“こころ”が、自然科学を扱うのであって、その逆ではないということであり、自然科学も人の営みの一つと考える立場であります。精神病理学も、実学中の実学である医学である以上、治療的である限りにおいて、自然科学を大いに利用すべきであろうと考えますが、どのように利用するのが正しいのかについて考えるのが精神病理学の役割と考えております。

慶應における精神病理学は、三浦岱栄、保崎秀夫、武正建一、浅井昌弘、鹿島晴雄、濱田秀伯、古茶大樹ら先達によって脈々と学び継がれてきました。当研究室が、皆で精神病理学を学んで行ける場となればと願います。

精神病理学研究室 前田貴記

輪読会

・Kurt Schneider. Klinische Psychopathologie(クルト・シュナイダー「臨床精神病理学」)
・安永浩「安永浩著作集1~4」,「精神科医のものの考え方」

精神病理研究会の日程

令和元年11月22日(金)
工藤弘毅(聖マリアンナ医科大学神経精神科・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「精神医学における疾患概念について」
概要:
Schneider Kは1946年、„Klinische Psychopathologie“の初版に当たる„Beiträge zur Psychiatrie“を著した。同年12月には,Zum Krankheitsbegriff in der Psychiatrie‘において、統合失調症と循環病は「圧倒的多数の例では体験とのつながりを有しておらず、体験に動機付けられておらず、とりわけ生活発展の意味合法則性を切断する。これは身体的基盤が明らかな精神病でも全く同様であることから、統合失調症と循環病の基盤になんらかの疾患の存在を推定することは確実に許容される。」と記し、統合失調症と循環病という精神病について、身体内に存在する疾患的な器官過程に帰し得るという意味で「疾患的」であるとする理由として、意味合法則性の切断を挙げている。同論文は1948年„Beiträge zur Psychiatrie“第2版に加筆の上で収録され、1950年第3版にて„Klinische Psychopathologie“と表題が変更された後も幾度かの改訂が行われている。
本発表では、„Klinische Psychopathologie“に収録された同論文に相当する部分の改訂を通観した上で、Schneiderの,Klinische Gedanken über die Sinngesetzlichkeit‘ (1953), Pauleikhoff Bの,Über Seinsweise (Form) und Thema (Inhalt) bei der abnormen Erlebnisreaktion‘ (1953), Kisker KPの,Zur Frage der Sinngesetzlichkeit‘ (1955)での意味合法則性に関する議論に触れながら、精神医学における疾患概念について検討したい。

令和元年10月25日(金)
沖村宰(長谷川病院・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「1990年のManfred Spitzerの論文、"On Defining Delusions"の紹介」
概要:
発表者は、10年ほど前に、花村誠一先生に上記論文とManfred Spitzerによる妄想の定義を教わった。理解はできずに年月が経ってしまっていた。統合失調症の妄想と他精神疾患の妄想の違いはあるのか?あるのならそれは何か?を精神病理学的に考察をする際に、この論文を数年ぶりに改めて読んでみると、発表者にとっては、臨床上有用なことにあふれていた。研究会にて紹介させていただき、理解が深められたらと考える。

令和元年9月27日(金)
第42回日本精神病理学会の予演会
古城慶子 「精神科診断の方法論的基礎再考」
古野毅彦 「症例からみた意志の症候学②」
工藤弘毅 「意味合法則性についての検討」
前田貴記 「主体性の精神医学:こころと身体の重なるところ」

令和元年7月26日(金)
久保馨彦(鶴が丘ガーデンホスピタル・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「類破瓜病が疑われた2症例の検討」

令和元年6月28日(金)
神山昌也(聖マリアンナ医科大学神経精神科)
「遅発緊張病の1例」

令和元年5月24日(金)
古茶大樹(聖マリアンナ医科大学神経精神科)
「統合失調症とは何か」
概要:
精神障害のほとんどは身体医学で使われている意味での疾患単位としては確立していない。統合失調症も例外ではなく、その概念はその時代ごとに提唱された類型概念にとどまっている。統合失調症の軽症化あるいは時代による病像変遷がしばしば話題に上るが、それは統合失調症という実体を前提として、初めて論ずることができることだろう。ところが、われわれはいまだその実体を把握したとはいえない。確実にいえることは、統合失調症はいまだかつて疾患単位として確立したことはなく、ただ類型概念(理念型)として提唱されてきたということである。百年前と現在とを比較して、「統合失調症」と診断された患者の呈する病像が一致しないということはまちがいない。しかしそれは統合失調症の病像が変化したというべきではなく、その時代ごとに何を統合失調症と呼んでいたのか、つまりは概念そのものの変遷と考えるべき問題かもしれない。前半は、統合失調症を含む多くの精神障害の類型が理念型であるということについて論じたい。後半は、「統合失調症とは何か」をKraepelinの早発性痴呆に始まる、このおよそ100年間の概念の歴史的変遷をみることにしたい。

平成31年4月26日(金)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「主体性の精神病理学<治療編>:相互主体性におけることばの力」
概要:
ことばには、いろいろな機能がある。切り取る機能、紡ぐ機能、繋ぐ機能など。例えば、精神医学においては、症状学は切り取る機能に拠り、語りは紡ぐ機能に依り、対話は繋ぐ機能に縁っていると言えるであろう。精神科医の仕事は、ことば無くしては儘ならず、上記のようなことばの機能を、目的によって臨機応変に遣い分けている。ことばを遣うときに、精神科医自身が、診断のための症状を切り取ろうとしているのか、それとも精神療法として紡ぎ、繋ぐ対話をしているのかについて自覚できていなければならない。熟達した精神科医であれば、実は、それら機能を同時に成していることもある。
dialogueの語源は、ギリシャ語のdialegesthaiであり、dia=throughとlegein=to speakから成るとのこと。dialogueとは、語りを通じて人々が繋がる営みのことなのであろう。接頭辞dia-とdi-とを混同して、二人での語らいに限定されがちであるが、本来は限定のない語らいが意味されている。日本語でも、「対」という漢字から、二人が向き合って相面、相対しているような印象を持ってしまいがちである。dialogueとは、語らいよって人々が繋がり結びつくことであるという認識は、精神療法の技法としての対話について考えるとき、大切なことかと思う。
興味深いのが、当然と言えば当然であるが、精神療法のいずれの治療論においても、対話において、人間というものが精神をもつ自律した「主体」としてまず在り、「主体」どうしが“相対峙”しているという構造を前提として治療論が展開されているという点である。今日の精神医学は、西欧における近代以降の人間観に基づいた治療思想であるために致し方ないのかもしれないが、生物学的にみた場合、“私”という意識が生まれる以前から、個体は生物として既に環境の中で適応すべく主体的に生きており、このとき必ずしも当の「主体」が自身の「主体性」について自覚的である必要はありません。「主体」は、「主体」としての“私”という自我意識(以下、「主体性の意識」)に先立っており、その上で、自と他(非自)という体験が分化してくる。ここで重要なのは、生存環境において、環境から完全に自律した「主体」というものはありえず、適度に環境に依存しつつ(環境依存性)、適度に環境から独立しつつ(自律性)、環境と結びついて生きているのが生物であるということである。しかるに、人間の精神というものは、人間とは完全に自律的なもので、意志決定の責任の帰属するものと信じ、とらわれている(信じさせられている?)。このように、精神における「主体性の意識」の肥大化により、環境を制御可能なものと妄信し、生物としての「主体」の実体と乖離してしまっていることが、人間のこころに生じる様々な問題の種となり得るものと思われる。その一方で、統合失調症のように、疾患のために、環境との結びつきを失い、主体的に環境に関わることができなくなっているような事態もある。いずれにしても、人間においては、精神というものが具わっているがゆえに、環境と適切に結びついているということがいかに難しいかということがわかる。
精神療法の技法としての対話は、ことばを通じて、病める「主体」が自らの住まう世界との結びつきを取り戻し、適応を回復することを目指すための技法かと思われる。真に適応的な生き方とは、「主体」が自身の生存環境を信じ、安心して身を委ね、結びつくことができていること、さらに、他者の主体性についてもしっかりと感じとり、相互主体的に調和して生きていられる状態に安らえていることであろうということである。

平成31年3月22日(金)
古城慶子(国際医療福祉大学小田原保健医療学部 作業療法学科)
「生の哲学的人間学(ルートヴィヒ・クラーゲス)の精神症状学への寄与について」
要旨:
クラーゲスの精神医学への寄与については、生存中に実際にドイツ語圏の精神医学専門雑誌「Nervenarzt」にSchneider,K.の「精神病質人格」の成書に対する批判的展望を掲載していますし、かのアスペルガー症候群の提唱者の論文では、正面からクラーゲスの性格学(性格属性)を基礎(敷石)にして「広汎性発達障害」を構想、発展させている等々、精神医学会に当初相当のインパクトを与えています。Jaspers(表現学)やPrinzhorn(病跡学)もクラーゲスから影響を受けています。本邦では千谷七郎(当方の前勤務先の教室のかつての主任教授)がクラーゲスに触発されて、リズム研究などへと展開したことも、クラーゲスあってのことであることは言うまでもありません。蛇足ですが、クラーゲスの本を最初に千谷先生の勧めたのは、東京帝国大学時代の主任教授であった内村祐之教授であり、内村先生の要請で東京女子医大精神医学教室に千谷先生は赴任されたという経緯があります。したがって、クラーゲスの発掘は内村先生の方が先ではあります。クラーゲスのドイツ語の本を千谷先生に渡されたところに、内村先生は先見の明があった(千谷先生の関心を先取り的に見抜いておられた)としか言いようがありません。
いずれにしろ、森羅万象(形象Bild)の心(性情Wesen)を探求(観得Schauen)した人です。現実とは「諸形象の現実」であり、「生命Leben」とは「体験Erleben」であるというのが、クラーゲスの確信です。生命にくさびを打つ精神(主著の題名「心情の敵対者としての精神」)の問題を,「有Leben」に「無Geist」が闖入したというクラーゲスの骨太の問題意識がいかに精神病理として顕現しているか、難題ではありますが、その点をも当日議論の俎上に載せて頂ければと考えています。

平成31年2月22日(金)
大井博貴 (足利赤十字病院神経精神科・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「déjà vecuおよび被注察感が顕著であった1例の妄想について」
概要:
déjà vecuとは、déjà vu(既視感)がより強固に長時間持続する病態である。瞬間的で現実感の乏しいdéjà vuに比べ、déjà vecuでは、同じ体験が繰り返されていると強く確信する点が特徴的である。自験例では、初回入院にもかかわらず「先生と会うのは2回目、ここに入院するのも2回目」と話し、この考えを強く確信しており訂正不能であった。当初髄液検査は初めてと語っていたが、施行後には「前もここで先生にしてもらった」と話すなど、入院後も繰り返しdéjà vecuが出現した。また同時に、被注察感も強く、一部妄想知覚ともとれる様々な被害妄想も訴えていた。この自験例を中心に、カプグラ症候群などの人物誤認や統合失調症(特に妄想知覚)の病態も参考にして、妄想が生み出される過程について考察したい。

平成31年1月25日(金)
織笠裕行(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「自然であることの大切さ:中動態をめぐる考察を中心として」
概要:
英語などの言語を学ぶ上で登場するのが「能動」と「受動」の区別だが、「中動態」はそれらの起源となる、より古い動詞の態を指す。「文化は精神の形態学」(ブルクハルト)という言葉があるが、言語もまたしかりであり、中動態はその古さから、より人間精神の自然な形を表現していると考えられ、精神医学にとっても重要な概念として注目されている。本発表では、中動態を精神病理学的考察に取り入れた木村敏の思索を中心に、自然であることの大切さについての考察を試みる。

平成30年12月21日(金)
山下祐一(国立精神・神経医療研究センター)
「予測符号化仮説に基づく精神障害の病態理解:精神病理学と神経科学の橋渡しとしての計算論的精神医学の可能性」
概要:
脳の情報処理プロセスを数理モデル化する計算論的神経科学の理論によると、脳とは予測装置であり、予測と予測誤差最小化が、人の柔軟で多様な認知・行動を可能にする脳の一般的計算原理であるとされる。これを予測符号化(predictive coding)仮説といい、近年、この予測符号化プロセスの失調として精神障害の病態を理解しようとする試みが盛んになっている。本発表では、予測符号化に基づく精神障害の病態仮説を概観するとともに、計算論が、精神病理学と神経科学の橋渡しに貢献する可能性について考察を試みる。

平成30年11月30日(金)
鹿島晴雄(国際医療福祉大学・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「アレクサンドル・ロマノヴィチ・ルリヤと私」 

平成30年10月26日(金)
フレッシュマンおよび初期研修医の先生方に、興味のある事柄、臨床における疑問、研究テーマについて自由にお話しいただき、皆でディスカッションを行うというsalonにしたいと思います。

平成30年9月28日(金)
第41回精神病理学会の予演会 抄録

「psychosisにおける病識について」
久保馨彦(鶴が丘ガーデンホスピタル・慶應義塾大学医学部精神神経科)

「意味合法則性に関する考察」
工藤弘毅(東京歯科大学市川総合病院精神科・慶應義塾大学医学部精神神経科)

「『生の哲学的人間学』(ルートヴィヒ・クラーゲス)の精神症状学への寄与について」
古城慶子(国際医療福祉大学小田原保健医療学部作業療法学科)

「症例からみた‘意志’の症候学について」
古野毅彦(国立病院機構東京医療センター精神科)

シンポジウムⅡ「語り(ナラティブ)と対話(ダイアローグ)」
指定発言:前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)

平成30年8月24日(金)
古野毅彦(国立病院機構東京医療センター精神科)
「症例からみた‘意志’の症候学」
概要:
心には感情、知覚、思考、記憶などの心的要素を秩序づけ、行為に導くはたらきがあると思われる。そのはたらきを‘意志’と捉え、‘意志’が障害されたと考えると理解しやすい症例を提示し、 ‘意志’の症候学について皆さんと考えたい。

平成30年7月27日(金)
久保馨彦(鶴が岡ガーデンホスピタル・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「多彩な感覚異常を認め、背景に変性疾患が疑われた一例」

平成30年6月28日(木)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「主体性の精神病理学」
概要:
統合失調症は、原因、病態生理、それらに基づいた根本的な治療法のいずれも未解明であるため、その臨床は自然科学のみで解決するものではない。“自我障害”という切り口から症状論について、そして病態論、治療回復論を展開するために、“主体性の精神病理学”の試みについて述べる。主体性の精神病理学は、精神病理学と自然科学としての生物学さらには脳科学との、ありうべき連繋を目指す試みであるが、これは統合失調症のみならず精神医学全体の課題であり、その一つのモデルとなればと考えている。

平成30年5月25日(金)
ムハンマド・エルサルヒ(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「イスラムにおける精神医学」
概要:
イスラムは世界で信者の数が急増している宗教で、全世界の信者数は現在18億人にのぼるともされます。だが日本では、イスラムの実態やイスラムにおける精神疾患の概念や治療方法が紹介されることはほとんどありません。そこで本発表において、まずイスラムについての基本を紹介し、次に精神医学に関する様々な概念や習慣について概説します。本テーマについて、演者は、既に2017年10月に雑誌「精神科」(科学評論社)に投稿していますが、今回の発表においては、精神病理学的な内容を加えます。このことにより、研究会の参加者の臨床の視野が広がり、かつ深みが増すような啓発ができるように試みます。発表後はオープンディスカッションをしたいと思っております。

平成30年4月27日(金)
山田成志(立川病院精神神経科・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「オープンダイアローグの紹介〜対話性について体験する、考える〜」
概要:
オープンダイアローグは1980年代のフィンランドで「本人不在で本人のことを決めない」と決めたのを最初の一歩に、効果的で心地良い治療を試行錯誤する中で育ってきた、対話を中心とした精神的危機に対するアプローチ方法です。そこでは精神的危機は関係性の間で生まれると考え、専門家は専門家らしさを捨て一人の人間としてヒエラルキーなく患者、家族と対話をすることを大切にします。精神的な病いを個に見るか、関係性に見るか、三人称的に見るか、一人称的に見るか、それらの軸において精神病理学とオープンダイアローグは対極に位置するかもしれません。しかし、目の前のその人をちゃんと理解したいという思いは両者に共通していると思います。当日はオープンダイアローグの根幹である対話性について、短い体験も交えながら一緒に考えていけたらと考えています。

平成30年3月23日(金)
沖村宰(長谷川病院・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「チャーマーズの意識のハードプロブレムに関して雑考」
キーワード:
誤信念課題、チューリングテスト、神経現象学、デネットの意図スタンス、臺弘の瞬間意識仮説

滝上紘之(桜ヶ丘記念病院・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「精神病理学の立ち位置とは 病因論と回復論のシーソーゲーム」
概要:
「治療を考えるには病理を極めなければならない」という考えは医学の根本原理であるかのように扱われている。しかし元を辿ると、病苦の原因を知るよりも、病苦を軽快させる方法を知るほうが、より喫緊の課題であった。時は流れ、回復をも射程に入れた「レジリエンス」という概念が、病因指向性の強かった科学的医学の中で近年注目を集めるに至った。
本発表においては、病因論と回復論が歴史上どのような緊張関係を見せてきたのかを概観する中で、精神病理学が現代に通じる理論的基盤を作った時代とは何だったのかを振り返りたい。

平成30年2月23日(金)
花村誠一(東京福祉大学社会福祉学部)
「統合失調症論と形態学的思考―ゲーテからウィトゲンシュタインへ―」

平成30年1月26日(金)
工藤弘毅(東京歯科大学市川総合病院精神科・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「了解不能性、意味合法則性・意味連続性について」
概要:
Jaspers KはAllgemeine Psychopathologieにおいて、「心的生活における最も奥深い区別は、我々にとって感情移入可能で了解可能な心的生活と、固有な了解不能性があり、真の意味でずれを生じている、統合失調症性の心的生活(妄想観念がなくてもである)との間の区別であるように思われる。」と述べ、統合失調症性の心的生活と他とを分けるものは了解不能性であるとしている。
またSchneider KはKlinische Psychopathologieにおいて、統合失調症と循環病は「とりわけ生活発展の完結性・意味合法則性・意味連続性を切断する。(中略)意味連続性を切断するのは疾患だけである。」と述べ、了解不能性に代えて意味合法則性・意味連続性という概念を用いている。
本発表では了解不能性、及び意味合法則性・意味連続性の諸概念について、検討を加えたい。

【症例検討会】
平成30年1月18日(木)
渡辺亮(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「境界知能に合併した妄想性障害に対して認知行動療法的アプローチが奏功した一例」
概要:境界知能の患者が豚の生肉を食した後、寄生虫妄想が出現した症例です。認知行動療法的アプローチが奏功しましたが、なぜ奏功したのか、境界知能はこの症例にどのうように影響したのかを議論できたらと思います。

平成29年12月22日(金)
遠藤有紗(大泉メンタルクリニック・東銀座クリニック)
「妄想・妄想様観念・優格観念について考える」

平成29年11月24日(金)
古城慶子(国際医療福祉大学)
「精神症状学の基本問題-方法論としての全体論、構造分析そして単一精神病」
論旨:
次の論点に沿って、論及します。論点1.精神症状学における3つの方法論再説、論点2.3つの観点に通底する精神病理学的意味の探求と3つの方法論の今日的意義について、論点3.3つの方法論の「経過(変化)の精神病理学」に向けての展開可能性について。この3点です。
ここで扱うテーマは精神医学大きな課題であり、特に副題に示す3つの概念は私にとっては精神症状学の方法論の鍵概念ともいうべき重要な観点として、それぞれについては繰り返し言及してきました。今回改めて「人のこころがわかる方法を探求する」という観点に立ち戻って、従来の精神症状学のあり方を見直し、批判的展望をも含めて精神症状学が入り込んでいる迷路からの脱却の道を求めたい、というのが目的です。
当日は,補完すべき自著をも含めて、さらに外堀を埋めることができればと考えています。

平成29年10月27日(金)
阿部大樹 古茶大樹(聖マリアンナ医科大学神経精神科)
「H.S.Sullivan "Personal Psychopathology"翻訳プロジェクトについて」
概要:
本発表ではH.S.Sullivan著”Personal Psychopathology”の翻訳プロジェクトについて発表する。著者Sullivanは1920年代‐40年代のアメリカ精神医学創成期に活躍した精神科医であり、初期には精神病棟における緊張病患者への精神療法で目覚しい成果を挙げたことで注目を浴びた。その後はエスノグラフィーを重視した社会学シカゴ学派と交流を深め、結果として現代の地域精神保健の礎となるソーシャルワーカーや精神科専門看護師の育成を進めた。その後はAmerican Journal of Psychiatryの編集長を務めつつ、また大戦後には現在のWHOの母体となる組織を設立するなど活動は多岐に渡った。思想的な側面からは、発達段階に応じた対人交流の変遷とそれが人格の発達に及ぼす影響を重視し、精神疾患の治療についてもこの過程の障害に介入することを目指した。これを指して一般には対人関係論を創始したとされる。本邦においては、中井久夫を中心としてこれまでに編纂された講義録・講義ノート・論文集が計5冊翻訳出版されている。今回翻訳を行うPersonal Psychopathologyは生前唯一の著作であるが、戦前には同性愛に対する肯定的な記述のため出版が延期され、戦後(著者死後)には汎人類愛的な思想のためにマッカーシズムの追及を恐れた同僚たちが出版を許可しなかったと言われている。最終的な出版は本国にて著者死後26年経った1975年、本邦ではこれまで中井らを含めて複数のグループで翻訳が試みられたが出版には至っていない。現プロジェクトのメンバーは阿部大樹(聖マリアンナ医科大学神経精神科)、継松力(松沢病院精神科)、須貝秀平(東京大学薬学部)。2017年6月より翻訳作業を開始し、2021年前半の出版を目指している。今回の発表ではSullivanが活動した時代とその思想を概観し、現在進んでいる翻訳作業の一部についてご検討、ご批判をいただきたい。

平成29年9月22日(金)
第40回精神病理学会の予演会 抄録

久保馨彦(慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室)
「精神医学を相対化することの意味 -G. Deleuze、F. Guattariらを参考に」

柏倉美和子(日産自動車健康保険組合診療所・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「憑依精神病の回復の可能性について:憑依体験の構造から考察する」

工藤弘毅(東京歯科大学市川総合病院精神科・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「内因性精神病に関する心理の問題について」

古城慶子(国際医療福祉大学小田原保健医療学部作業療法学科)
「精神症状学の基本問題-方法論としての全体論と構造分析そして単一精神病」

平成29年8月25日(金)
鹿島晴雄(国際医療福祉大学・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「抑制の障害から症状を考える」

【症例検討会】
平成29年8月17日(木)
久保馨彦(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「病名告知の判断で迷った統合失調症の一例」

平成29年7月28日(金)
久江洋企(桜ヶ丘記念病院)
「簡易鑑定と責任能力論—シュナイダー他の古典を読む」

平成29年6月27日(火)
柏倉美和子(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「シャーマンにおける憑依・トランスの体験構造を理解する:解離性障害との違い、統合失調症との違いを精神病理学的に考察する」

菅原ゆり子(日産自動車健康保険組合診療所)
「民俗精神医学:古代信仰に学ぶ成人儀礼の意義」 

平成29年5月26日(金)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「統合失調症の病態生理、そして症状形成機構について(異常知覚体験を中心に)」

平成29年4月28日(金)
沖村宰(長谷川病院・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「フロイトの統合失調症論から得られることの模索」
概要:
 シュナイダーの「臨床精神病理学」の初版が1950年に刊行された。統合失調症の一級症状は陽性症状の診断基準として有用であるが、一級症状が明確に患者において認められないとき、診断に急に困るということが多々ある(少なくとも演者は)。
 シュナイダー以後、一級症状とは別の面から統合失調症の病理に取り組んだ弟子らもいるが、シュナイダー以前に戻ると、演者はフロイトの1915年の”Das Unbewußte (邦題:無意識について or 無意識) ”を思い浮かべる。この論文の中には、統合失調症に関する論考も書かれている。ブロイラーが1911年に”Dementia praecox oder Gruppe der Schizophrenien (邦題:早発性痴呆または精神分裂病群)”を刊行したときに精神分裂病の病態にフロイトの理論に大きく影響を受けたのはご承知の通りである。またヤスパースが了解の概念を提出したのも同時期(精神病理学総論, 1913年)である。
 演者は精神分析の特別なトレーニングを受けてもいない、ただのフロイト愛好家で、学生のときに乱読したのみであった。10年少しの臨床経験の後、久しぶりに、論文を読み直してみて、統合失調症の病理に関して得られるところがあるか、研究会の諸先生にご教授をいただきながら検討させていただければと存じます。

平成29年3月24日(金)
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科)
「緊張病について」
概要:
DSM-5で緊張病は疾患横断的にすべて一緒ということになりましたが、統合失調症の緊張病にしか出現しない緊張病症状も認めます。また、遅発緊張病をはじめとして、縦断的な経過を診ることも必要です。われわれ臨床精神科医にとって、これら違いや縦断的な経過を重視することが重要に思われます。さらに、緊張病は古くから身体疾患とのつながりが重要視されてきました。足利赤十字病院での臨床データをもとに、みなさまと古典的なテーマである緊張病について病態の把握を進めていければ幸いです

平成29年2月24日(金)
精神病理学と生物学の関係については、精神科医の臨床実践そして研究において、立場はどうであれ、意識的か無意識的かはともかく 、何らかの仮説をもって臨んでいるものと思います。問題のありかについては、既に、臺弘と安永浩によって示されている通りであります。今回は、本テーマについて、あらためて皆で考えてみたいと思います。
<参考文献>
臺弘:精神分裂病の生物学的研究と精神病理.町山幸輝、樋口輝彦編「精神分裂病はどこまでわかったか?」所載 p245-260, 星和書店, 1992.
安永浩:臺論文に対する総論的コメント.臨床精神病理 14(3): 173-175, 1993.

豊嶋良一(フリーランス精神科医・埼玉医科大学名誉教授)
「新しい科学哲学からみた精神医学の基本問題 −臨床家が主観的に抱く「了解不能感」はなぜ、患者の「生物学的異常」の「エヴィデンス」なのか?−」
概要はPDF参照

滝上紘之(桜ヶ丘記念病院)
「疾病分類における「疾患単位」と「疾病類型」再考」
概要:
精神障害の大半が、病因が明らかではなく、かつ境界を確定できない疾病類型であることは論を待たない。一方で、一部の精神科医や自然科学研究者が精神障害分類の目標としている身体疾患分類は、疾患単位が確立していると解されることがある。本発表においては、現在につながる疾患単位が登場してから現在に至る身体疾患分類のありようを簡単に振り返り、精神障害分類が疾患単位確立を目標としつづけることの妥当性について考えたい。

平成29年1月27日(金)
遠藤有紗(大泉メンタルクリニック・東銀座クリニック)
「ごく一般的な社会生活を送りながらも、強迫的な視覚表象、特徴的な思考傾向を有し、診断に苦慮した症例」
症状は了解可能な「反応」であるのか、あるいは「疾病性」があるのかを検討すべく問診をすすめるうちに意外で特徴的な訴えが次々に聞かれた症例です。
提示する患者さんの具体的な発言内容をもとに、診断を一緒に考えていただけましたらと思います。

【症例検討会】
平成28年12月20日(火)
南房香 久保馨彦(慶應義塾大学医学部精神神経科学教室)
「心気妄想と罪業妄想を呈した退行期の症例」
指定討論:古茶大樹(聖マリアンナ医科大学神経精神科学教室)

平成28年11月25日(金)
三浦聡太郎(心の杜 新宿クリニック)
「臨床における病状と責任の関係について考える」

平成28年10月28日(金)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「精神医学における“疾患概念(Krankheitsbegriff)”について」
概要:
Schneider Kは、「精神医学における疾患概念の根拠を、もっぱら身体の疾患的変化に置いている」と述べているが、身体的基盤が不明である統合失調症と循環病が“疾患(Krankheit)”であることの根拠については、「生活発展の完結性・意味合法則性・意味連続性を切断する」こととしている。精神科診断学において最重要とも言える、生活発展の完結性・意味合法則性・意味連続性とは何の謂いかについて考え、工藤弘毅先生の前座としたい。

工藤弘毅(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「Schneider KはSinngesetzlichkeit(意味合法則性)をどう考えたか」
概要:
Schneider KはKlinische Psychopathologieにおいて、「統合失調症と循環病という精神病は…とりわけ生活発展の完結性・意味合法則性・意味連続性を切断する。…最近、Kiskerはこの問題に関する包括的論文を発表した。」と記し、統合失調症・循環病を含む内因性精神病を疾患たらしめるものについて、「意味合法則性」という概念を用いて論じている。
本発表では、Schneider Kが上記に先立って「意味合法則性」について論じているKlinische Gedanken über die Sinngesetzlichkeit(1953)、上の引用で言及されているKisker KPのZur Frage der Sinngesetzlichkeit (1955)、及びSchneider Kがこれらの30年ほど前に「意味合法則性」について言及しているVersuch über die Arten der Verständlichkeit(1922)での議論を基に、「意味合法則性」について検討したい。

平成28年9月23日(金)
第39回日本精神病理学会の予演会
工藤弘毅「Sinngesetzlichkeit(意味合法則性)について」
前田貴記「統合失調症におけるスペクトラムというメタファーの導入の意義と 問題点 」
古城慶子「 精神医学における二重診断体系の再検討—症状論的分類と成因論的分類について 」

平成28年8月26日(金)
柏倉美和子(稲城台病院・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「即身仏は何故できたのか 〜出羽三山信仰のひとつ、湯殿山麓を訪ねて~」

概要:
北関東から北越、東北地方には、日本で数少ない即身仏が存在し、その半数が山形県の湯殿山を中心とした地域で発見されています。湯殿山の即身仏が作られたのは、江戸後期ですが、当時の湯殿山は、「西の伊勢参り、東の奥参り」と呼ばれるほどに、多くの信仰を集めておりました。
即身仏の目的は衆生救済と言われていますが、その記録の多くは口伝であり、なぜ修行僧が自ら志願して即身仏となったのか、詳しいことはわかっていません。現代的に見れば、常軌を逸した数々の厳しい修行の果てに、自らを石室の中に安置させ、経を読みながら鐘をならし、息絶えて即身仏となり生まれ変わるその姿は、時をこえて私たちの心を打つものがあります。何故、自己をミイラと化してまで身体を残そうとしたのか。伝えたいものは何であったのか。当時の時代背景、宗教的背景を紐解きながら、その疑問を皆さまと考えていければと思っております。

平成28年7月22日(金)
宮島加耶(慶應義塾大学医学部精神神経科・慶應義塾大学病院緩和ケアセンター)
「生きる意味を超えて ~フランクル、悲嘆、ディグニティセラピー~」

概要:
ヴィクトール.E.フランクルはナチスの強制収容所を体験したウィーン出身の精神科医です。東日本大震災後には『夜と霧』などの名著が書店で平積みになり、あらためて注目されました。しかし、精神医学の中で議論される機会は意外に少ないように思います。身体疾患や精神疾患をもつ人の治療あるいはケアにおいて、意味をめぐるフランクルの思想には手がかりとなることがたくさんあります。今回はその思想を紹介しながら、進行がん患者にディグニティセラピーを行ったケース、終末期ケアと遺族の悲嘆の研究について発表し、実存的苦痛に対して精神科医ができることを考えたいと思います。

平成28年6月24日(金)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「統合失調症におけるスペクトラムというメタファーの導入の問題点」

概要:
DSM5は、“カテゴリー診断”か“ディメンジョン診断”かと喧喧諤々の中で当座まとめられた感があるが、スペクトラム概念が導入された背景には、“カテゴリー診断”から“ディメンジョン診断”への移行という目論見があると思われる。
そもそも、「スペクトラム(spectrum)」とは、複雑で多様な事物・事象について、特定の成分を軸として並べなおしてみたときに、それら対象群が或る像を描いて新たに並び現れたもののことである。例えば熱放射による光の分光スペクトルのように、色について光の波長(振動数)という軸で並べなおしてみると、ばらばらに存在すると思われていた色が、きれいな虹模様の像を結ぶ。また、光の振幅も考慮すると、色はマンセル表示のように色相、明度、彩度の3要素によってスペクトラムを描くこともできる。スペクトラム化は、複雑で多様な対象群について分析する際に採られる手法の一つであるが、重要なのは、どのような成分を軸として配列するかである。軸の選定を誤れば、何の像も結ばないばかりか、かえって混沌へと陥ってしまうことは言うまでもない。
統合失調症スペクトラムについて言えば、そもそもどのような軸を選定して、関連障害群を並べ直したのかが定かではないという点が問題である。軸を決めることなしに、スペクトラムを描こうとすることは、方法論的に不適切であり、DSM5におけるスペクトラム概念の導入は、残念ながら、単なるメタファーであると言わざるをえない。
精神科診断学が迷走している今日、あらためて、そのあり方について考えてみたいと思います。関連して、NIMHのRDoCについても、精神病理学の立場から、議論できればと思います。

平成28年5月27日(金)
古城慶子(国際医療福祉大学・東京女子医科大学神経精神科)
「精神症状群の症状構造論再考―comorbidityと構造分析―」

平成28年4月22日(金)
鹿島晴雄(国際医療福祉大学・慶應義塾大学医学部精神神経科)
「精神病理私見」

平成28年3月22日(火)
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科)
「急性精神病の中の脳器質疾患の鑑別 ~誤診例から考える~」 

概要:
当院ないしは当院近隣から入院となった精神疾患の誤診例として脳炎が多く、中でも抗NMDA受容体脳炎がもっとも頻度が高いことが当院の統計から明らかになっています。
脳炎と統合失調症の急性期ないしは非定形精神病の鑑別はしばしば困難ですが、鑑別のために外来や救急外来で全員に髄液検査を行うのは現実的ではありません。
むしろ、統合失調症等のの中核症状は何であるのか、要するに統合失調症とは何なのか。
一方で脳炎、特に自己免疫性脳炎とは何なのか。
この2点を明らかにしていくことで誤診を減らせるのではないかと考えています。
みなさまと討論しながら、鑑別を100%に限りなく近く持っていけるように検討したいと思います。

平成28年2月23日(火)
野原博(共済立川病院・駒木野病院)
「一級症状の特異性について-“In aller Bescheidenheit”という表現を巡って」

概要:
シュナイダーが提唱した一級症状の特異性については議論があり、特に気分障害、解離性障害との鑑別で特異性を疑問視する見解がある。また最近DSM-5では一級症状の特異性は認められなくなった。さらに特異性を否定する論者は、シュナイダー自らが特異性を明言していないという解釈を援用してその正当性を支えようとすることがある。このような一級症状の降格という扱いが本当に適切かどうかをシュナイダーの文献に基づいて検討する。シュナイダーによれば精神病理学的所見は身体的基盤が不明な場合本来医学的に厳密な意味での「症状」ではない。その場合の診断は「である」とは言えず「と呼ぶ」としか言えない。一級症状があり身体的基盤が不明であれば「in aller Bescheidenheit」臨床的に統合失調症と呼ぶとする。本邦では、「in aller Bescheidenheit」という表現は「ごく控えめに」と翻訳されることもある。しかしこのドイツ語の慣用句は、通常「いくら遠慮するとしてもやはり」と強調する目的で使用される。In aller Bescheidenheitという慣用句は謙譲を意味するBescheidenheitを含んでおり、このような慣用句を選んだのは統合失調症の基盤をなす不明な身体的疾患を仮定することへの配慮と考えられる。シュナイダーは疾患過程を仮定することの限界を理解していたが、やはり一貫して一級症状の特異性を確信していたのである。このような解釈を考慮して一級症状の特異性について検討することは、統合失調症の特異性とは何かを考える手がかりになると期待される。

平成28年1月26日(火)
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「統合失調症の症状論・病態論・治療論~ことばの限界とことばの力~」

統合失調症の特異性は主観的訴えにのみ現れる。異常体験のありようは、当事者本人のことばに拠らずしてはうかがい知ることはできないため、訴えをそのままに聴くことがまず大事である。ところが、当事者にとっても異常体験は新奇の体験なので、それらを正確に表現することばを持ち合わせておらず、既知のことばによって近似的に置き換えて表現するしかない。シュナイダーも、このようなことばの限界について十分に理解した上で、それでもなお、少なくとも診断にとっては十分であるとし、一級症状を提唱した。しかしながら、統合失調症の病態理解においては、ことばでとらえ、表現することは至極困難である。安永浩先生は「分裂病の症状論」の中で、「いわゆる分裂病諸症状の全体特徴をたった一語でいえ、といわれたら、著者ならばこの“もろさ”の現れ方、すなわち“不安定性”といいたい。」と述べているが、一体どのような不安定性なのかについて、ことばで表現することには限界があろう。病態理解のためには、現実を織りなしていることばの体系に足をとられぬよう、一旦踏み出る必要があるが、その天才的な試みの一つが安永浩先生のファントム理論である。一方、病態理解においては無力であることばも、治療においては、“不安定性”を安定化させる力がある。安永浩先生の「姿勢覚」なる治療論の中では、当事者自身も感じているこころの不具合について、敢えて“捻挫”というような整形外科的比喩を用いて患者に説明するのであるが、ゆっくりとではあるが回復するであろうという含みを持たせ、“何とかなる”、“何とかする”という治療者の想いを暗に伝えているのである。統合失調症の治療論として、“ことばの遣い方”についても考えてみたい。

平成27年11月24日(火)
沖村宰(慶應義塾大学医学部精神神経科)
「数の概念:精神病理学に役立つことを願いて」

概要:
数学は古代文明から現在にいたるまで、自然科学だけでなく人文科学にまで影響を与えている。思考の根本としては、精神医学にも多大な影響を与えている。現代の数学は、抽象的で完成された学問であるようにみえる。しかし、ものを数えることや分類すること、現象が連続か離散かなどの見方は、数学においても、歴史的に何回かの変遷を経ている。精神を扱う精神医学、特に精神病理学において、精神疾患をどのように分類するか、精神病圏をどのように了解、理解、描写するかなどは、現在でも困難な問題である。それは、自然物でなく精神を扱うこと故であると主として考えらえているが、数学という完成されたようにみえ、ある対象を客観的に描写する道具として用いられる学問体系の内部においてさえ、曖昧な部分がある。数学の内部に入り込んで、その概要を掴むことは、精神疾患という現象をとらえる上で何らかの役に立つと考える。高校までに習う数学の中で、集合や極限、自然数と実数の概念の形成の歴史的変遷を追いながら、精神病理学にとって役に立つと思われる部分の私見を簡単に述べることを発表の主とする。