神経心理学研究室

人間の心を、脳という視点からとらえる。それが神経心理学の原点です。
慶應義塾大学医学部精神神経科の神経心理学研究室の最初のテーマは、前頭葉機能障害と記憶障害でした。1980年頃のことです。
当時の神経心理学の中心であった方法論は、脳損傷者の臨床症状の精密な分析で、我々もこれを踏襲し、症状を客観的に評価する方法を開発し、さらにそれを活用したデータを分析することで、脳機能のメカニズムを探究してきました。現在、前頭葉機能検査として全国で広く活用されている「KWCST (慶應式ウィスコンシンカード分類検査)」は、当時我々が開発したツールの一つです。
1990年代に入り、functional Neuroimaging等の導入により、神経心理学の方法論は急展開し、対象もあらゆる精神症状に、さらには健常者の脳機能にまで拡大しました。そして我々もこのテクノロジーを最大限に活用しつつ、かつ、精密な臨床症状分析を軽視することなく、研究を続けています。
研究会は、原則第二、第四月曜日の夜に開催しています。

以下、我々の研究内容をご紹介していきます。(順次更新します)

日本語版Rapid Dementia Screening Test修正版に関する検討
Yasushi Moriyama, Aihide Yoshino, Taro Muramatsu, and Masaru Mimura
Detailed analysis of Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test, revised version
Psychogeriatrics. DOI:10.1111/psyg.12248 [Epub ahead of print]

日本語版 Rapid Dementia Screening Test(Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test: RDST-J)は,スーパーマーケット課題と数字変換課題の2題からなる. スーパーマーケット課題は,1分の間に「スーパーマーケットやコンビニエンスストアで買えるもの」を答えてもらう言語流暢性課題である. また数字変換課題は,アラビア数字を漢数字に変換する2題(209→二百九,4054→四千五十四)と,漢数字をアラビア数字に変換する2題(六百八十一→681,二千二十七→2027)からなる(酒井ら,2006). 本検査は3~5分で施行可能でMini Mental State Examination (MMSE)程の時間を要さず,多忙な臨床における認知症のスクリーニング検査として有用である.
われわれは以前,RDST-Jは時計描画課題と比較し,健常群と CDR0.5 の鑑別補助に有用であることを示した (Moriyama et al,2016).

RDST-Jの数字変換課題における漢数字の質問・回答形式は横書きとなっている.しかし漢数字は本来,縦書きで書かれるものである.そこで今回,本課題で漢数字を縦とする影響を調べた.すなわちRDST-J原版(漢数字が横)と修正版(漢数字が縦)との認知症スクリーニングをおこなう上の感度・特異度を比較した.
対象はアルツハイマー病(Alzheimer’s disease: AD) 211例と健常群42例で,AD群のMMSEは12-26点,clinical dementia rating scale (CDR)は3-0.5である.修正版と原版の間に,干渉課題としてMMSEと時計描画課題をおこなった.
その結果,数字変換課題の4課題はいずれも縦バージョンは横のものに比べて成績が有意に高得点であった.次に CDR 0.5群(38例)を健常群(42例)と鑑別する上で, カットオフ値を7/8に設定した場合, RDST-J原版では感度63.8%,特異度76.6% であったのに対し,修正版では感度60.1%, 特異度85.8%であった.

以上RDST-J修正版は,原版と比べてCDR 0.5のスクリーニング検査として低い感度と高い特異度を有していた.

(森山泰、2017.7.1.)

解説 タテをヨコにするのではなく

もちろん国際化は必要だが、国際化は手段であって目的ではない。
論文を英語で書くことのみを目指すと、歪んだ研究が生まれる。最近しばしば目にされるのは、外国で作成された質問紙の翻訳をツールとして用いた研究に内在する問題である。Publishされた英語論文だけをいくら読んでもこの問題は見えてこないが、いかにも不自然な日本語が連ねられた質問紙が堂々と使われているというのが真実であることがよくある。このとき、back translationが形式的信頼性の免罪符でしかないことは、いったん論文化されるとその質問紙はもはやほとんど使われることがないことからも明らかである。診断や検査のツールを作るためには、単なる翻訳では全く不十分なのであって、WAIS-ⅢやWMS-Rも、日本の文化にあわせて原文に綿密な修正を加えて初めて汎用される検査として成立している。

Rapid Dementia Screening Testについての森山博士の一連の仕事も、真の検査を目指す妥協のない歩みである。本論文はその中の一歩として、従来はヨコに記して行っていた漢数字課題をタテに記すことによって特異度が増したことを示したものである。もし中等度以上の認知症を対象にするのであれば、ここまでの精度は必要ないかもしれない。だがCDR 0.5 という微妙な認知機能障害を捉えるためには、どこまでも精密さが要求されるのであって、そこには記述のタテヨコのような文化的要素も取り入れた検査が必要であることを本研究は雄弁に語っている。

もちろん国際化は必要である。但し医学研究における国際化は、真実の探究という目的を達成するための手段となって初めて意味を有する。お題目としての国際化と形式的物証としての英語論文の量産のために、単にタテのものをヨコにしたかのような論文が増殖している現代に対する警鐘を、本論文の中に読み取ることも可能であろう。

(村松太郎、2017.7.23.)

後天性脳損傷例における異食症は意味記憶障害と関連する
船山道隆(足利赤十字病院神経精神科 部長)Semantic memory deficits are associated with pica in individuals with acquired brain injury.
Michitaka Funayama, Taro Muramatsu, Akihiro Koreki, Motoichiro Kato, Masaru Mimura, Yoshitaka Nakagawa
Behavioural Brain Research 2017: 329: 172-179

異食症は介護上で最も大きな厄介な症状のうちのひとつである。急性の中毒、窒息、腸管の穿孔など緊急治療を要することも少なくない。自宅での介護をあきらめ施設入所が必要となることも少なくない。ところで、異食症は変性疾患、後天性脳損傷、統合失調症、自閉症スペクトラム障害、妊婦、乳幼児などに出現するが、機序は明らかになっていなかった。われわれはこれまで行われていなかった異食症の機序を解明する研究を行った。

対象は、変性疾患を除いた後天性脳損傷例にて異食症が出現した異食症群11例と対照群として異食には至らないが強い口唇傾向を示す口唇群の8例である。研究方法として、これら2群に対して神経心理学的所見と脳画像の比較を行った。神経心理的所見としては、前頭葉の解放現象(把握反射、吸引反射、利用行動)、意味記憶(日常物品の使用能力、意味記憶障害に関する介護者への質問紙、日常物品および食事動作の際の意味的誤使用についての介護者への構造的面接)、食行動の異常について調べた。結果は、異食症群は口唇群と比較して前頭葉の解放現象は弱く、一方で意味記憶障害は重篤であった。脳画像での比較では、異食症群の病巣は口唇群の病巣と比べて左優位の中側頭葉回後方が中心であった。

本研究の神経心理学的所見と脳画像所見は矛盾せず、異食症は左優位の中側頭回後方を中心とする損傷による意味記憶障害が関係する可能性が考えられた。後天性脳損傷に限らず、変性疾患、自閉症スペクトラム障害、乳幼児においても、意味記憶の障害ないしは形成が不十分であるために異食症が出現する可能性がある。また、意味記憶の神経基盤は側頭葉であることが定説であるが、本研究の所見は矛盾しない結果であった。さらに道具/人工物に関する意味記憶は左中側頭回後方を中心とする左半球が神経基盤であるとする研究が少なくないが、本研究での異食の対象の多くは歯磨き粉、洗剤、スポンジなどの道具/人工物であることから、これも矛盾しない結果となった。

われわれは異食という厄介な症状に対して、意味記憶による視点を切り口として症状の理解を深め、環境調節等による予防を行うことができるかもしれない。

(船山道隆、2017.6.1.)

解説 とりあえず食べる

食べ物ではない物を口に入れ食べる。それが異食症Pica である。異食症は認知症などの脳障害の症状として昔からよく知られている。だがメカニズムは不明であった。

直ちに連想するのは乳幼児の行動であろう。子が何でも口に入れるのは、世の親に共通する頭の痛い問題である。

異食症はそんな乳幼児の行動に似ている。だから原始反射が関係しているのだろう。退行現象だろう。局在的には前頭葉が主に関連しているのだろう。それが原因についての素直で自然な考え方だ。

しかしそうではなかった。関連する部位は側頭葉。関連する症状は意味記憶障害。船山部長が本研究で明らかにしたこの結果は、人々の直感に反するものであった。

物の意味がわからなくなるのが意味記憶障害である。つまり目の前の物が何であるかがわからなくなる。意味記憶障害は人に何をもたらすか。素直で自然な考え方は、物品の誤用である。だが誤用の中で、「食べる」だけが突出して現れるとは考えない。たとえば洗剤が何かわからない場合。たとえばスポンジが何かわからない場合。いずれも誤用のオプションは多岐にわたり、その中で特に「食べる」という誤用が突出して現れるとすればそれは奇異で、異食を意味記憶障害の二次的な症状のみで説明することは困難である。

すると「食べる」は人間の根源にある行動なのか。本論文のDiscussionには次のように記されている。

We human beings might be inclined to eat unrecognizable substances when we are unable to understand their meanings through any sensory modalities.

目の前の物が何だかわからなければとりあえず食べてみる。それが人間の脳にプログラムされた行動だという推定は、生命維持するための「食べる」ことの重要性に照らせば、素直で自然な考え方のようにも思える。が、これもまた何らかの方法による検証が必要であろう。

優れた臨床研究は臨床に還元できる。異食症は臨床上深刻な問題で、危険物が胃に入れば急性中毒や消化管穿孔のおそれがあり、いずれも生命の危険に直結する。本論文で示された異食症のメカニズムは、その予防や治療に貴重な示唆を与えるものである。

加えて本研究は、人に「食べる」ことの意味を考えさせる。人間の数々の行動における「食べる」ことの特権的な地位を考えさせる。脳についての優れた臨床研究データに内在するこの広がりこそが神経心理学の真髄である。船山部長の一連の臨床研究には常にそれを見出すことができる。

(村松太郎、2017.6.28.)

うつ病の医学と法学  中外医学社 2017年6月出版
著 村松太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科准教授)

解説 鵺の如し

判決文は法という異界から見たうつ病論である。
たとえば過労自殺。労働者側は会社の責任を追及する。過重な労働をさせた。だから自殺に追い込まれた。このとき、「過重な労働」と「自殺」を結ぶのが「うつ病」である。法の世界では自殺は自己責任であるが、「うつ病」という病気が介在されることによって、責任が会社に向けられることになる。
たとえば拡大自殺。母子心中で子が亡くなり母が命をとりとめたとき、母は殺人罪の被告人となる。このとき弁護人は母がうつ病に罹患していたと主張する。殺人は言うまでもなく重罪であるが、「うつ病」という病気が介在されることによって、被告人の刑事責任は大きく変わり得る。

目的がある。法廷にうつ病が持ち出されるとき、そこには目的がある。会社の責任追及。被告人の責任評価。そのほか如何なる事例であっても、それぞれに目的がある。それぞれの目的に合わせた形でうつ病が持ち出される。そして現代精神医学におけるうつ病とは不定形の概念であるから、法はそれぞれの事例の目的に合う部分だけを抽出する。それは不定形の特定部分が不自然に強調された、奇妙な「うつ病」となっている。

そして法廷とは閉鎖空間ではない。判例は社会に示された行動指針という性質を持ち、したがって法のうつ病論を、医は無視することはできない。法廷という異界でそれぞれの目的に合わせて改造され、判決文として社会に戻されたうつ病は、鵺の如き奇態なものと化しているが、それもまたうつ病であると、精神医学は認めなければならない。

一方、精神医学にも目的がある。治療? 確かにそれが一義的であるが、そこから派生した手段はしばしば目的と化する。薬の販売のための病気概念の拡大。新たな治療法適用のための病気概念の改変。研究の客観性担保のための病気概念の単純化。病気は医学の縄張りだと医学者は無邪気に信じているが、医学界で日常的に行われている営みは、別の世界から見れば異界の所業であって、現代のうつ病概念は異様な外観を呈しているばかりではなく、異臭さえ放っているのかもしれない。

法という異界からの逆光は、そんな医の現状を映し出す。異界のうつ病論たる判例から、刑事・民事あわせて22件を厳選し医の立場から論じた本書は、法と医の両方の実務に資することを目指して著したものであるが、同時に混乱の渦中にある現代精神医学のうつ病論を見直し、修正への道標を示さんとしたものでもある。

(村松太郎、2017.5.30.)

金銭報酬によるintentional bindingの事後的修飾作用に関する研究
高畑圭輔 (国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構 放射線医学総合研究所 脳機能イメージング研究部 研究員)It’s Not My Fault: Postdictive Modulation of Intentional Binding by Monetary Gains and Losses
Takahata K, Takahashi H, Maeda T, Umeda S Suhara T, Mimura M, Kato M.
PLos One 2012: 7(12): E53421

随意運動の「随意」が何を意味するのかは、なかなか難しい問題である。例えば、「腕を上に動かした」という行為の事実と、「腕が上に移動した」という物理的事実とは決してイコールではない。ある哲学者は、“What is left over if I subtract the fact that my arm goes up from the fact that I raise my arm?” という問いを立てた (Wittgenstein, 1953) 。この問いに対して、現代認知科学は、「腕を持ち上げようとする意図」(intention)と、「自らが腕が上に上がったことの起因主体であるという体験」 (sense of agency) という2つの体験要素であるという一応の解答を与えている (Haggard et al., 2005)。随意運動の主観性を構成するとされる、これら2つの体験要素は精神医学においても非常に重要な概念である。例えば、「他人の手徴候」と呼ばれる症候をintentionの障害と捉える立場や、統合失調症における自我障害の中核的要素がsense of agency の障害であるとする仮説もある。こうした背景から、運動意図(Will)及びsense of agencyに対する心理実験が数多くなされてきた。

まず、随意運動におけるintentionに関する古典的知見としては、Benjamin Libetが行なった有名な実験がある(Libet et al., 1983)。Libetは、2560ミリ秒で回転する時計を見せながら、被験者に運動意図が意識に上った瞬間にボタンを押すという随意運動を行わせると同時に脳波を記録した。さらに、運動意図が意識に上ったタイミング(W)とボタンを押したタイミング(M)を、時計の針の位置によって答えさせた。実験の結果、運動意図が生じる以前に、既に脳内では無意識的な神経活動(readiness potential)が開始していることが示された。この結果をどのように解釈するかについては、大きな議論がなされたが、Libetの結果自体は複数の実験で再現されており(Haggard et al.,1999;Susan Pocket et al.,2007)、概ね正しいものとみなされている。そして、現在では運動意図は脳が作り出した錯覚に過ぎないとするラディカルな仮説まで提唱されている(Wagner DM, 2003)

一方、Sense of agencyについては、1965年に通称alien hand実験と呼ばれる随意運動に関する古典的な研究 (Nielsen et al, 1965)がなされたのが端緒であり、以後この手法が様々な形に修正されてsense of agencyの検討に用いられてきた。Nielsenのalien hand実験及びその変法は非常に巧妙な手法である。しかし、sense of agencyという体験について明示的に(explicit)に質問を行うという点で被験者のバイアスがかかりやすく、より定量的かつimplicitな指標が求められていた。そこで、2002年にロンドン大学のPatrick Haggardは、上述のLibetの手法を改変することにより、sense of agencyをimplicitに定量評価する手法を確立した(Haggard et al., 2002)。この実験では、Libetと同様に被験者に2560ミリ秒で回転する時計を見せる。そして、被験者に運動意図(will)が意識に上った瞬間にボタンを押すという随意運動(action)を行わせる。すると、ボタンが押された250ミリ秒後に短いbeep音(effect)が鳴る。最後に、時計の針の位置で「ボタンを押したタイミング(action)」と「beep音が鳴ったタイミング(effect)」を答えさせるという手順である。実験の結果、随意運動条件でのみ、actionとeffectの主観的な時間間隔が圧縮されるという現象を発見した。これは、intentional binding(またはaction-effect binding)と呼ばれる現象で、sense of agencyのimplicitな指標であるとみなされている(Moore et al. 2012)。

我々は、Haggardの実験結果を詳細に検証する過程で、intentional bindingの強度が随意運動(action)によってもたらされる結果(effect)によって事後的に変化するのではないかという仮説を立てた。この仮説を検証するため、Haggardの課題を改変し健常者を対象に実験を行なった。随意運動(action)の部分はHaggardの条件と同一であるが、行為の結果(effect)に対して+500円(positive条件)、+0円(neural条件)、-500円(negative条件)と情動価を割り振り、オペラント条件付けを行なった。実験の結果、negative条件ではintentional bindingが弱まることを発見し、仮説が正しいことを確認した。Intentional bindingをsense of agencyの指標とみなせば、我々が得た結果は、行為の結果によってsense of agencyが事後的に修飾され得ることを示している。また我々の結果は、健常者がネガティブな出来事の原因帰属を他者に向ける傾向(自己奉仕バイアス)とも一致しており、その背景にsense of agencyの情動による事後的修飾が関与しているのではないかと考え、これらの結果および考察を本論文として報告した。なお、著者としては、今回の結果をもってagencyが錯覚であるという主張を行う気は全くなく、むしろ事後的に柔軟に変化するagencyの弾力性こそが、心の健康に関わっていると考えている。

なお、うつ病患者では、自己奉仕バイアスとは逆に、本来自らと関係のないネガティブな事象を自己に過剰に帰属させる傾向を持つ。これは、self-blaming bias あるいはdepressive realismと呼ばれる。うつ病患者のこうした心理学的傾向も我々の課題によって定量評価ができるのではないかと考え、うつ病患者を対象にした研究も行なっており、近々その結果を発表する予定である。

最後になるが、本研究は故加藤元一郎教授と前田貴記先生の全面的指導によってなされた。惜しむらくも平成27年3月に亡くなられた加藤元一郎先生に対して、本解説でもって深い感謝の意を捧げたい。

(高畑圭輔、2017.4.21.)

遠隔操作ロボットの研究開発におけるSense of Agencyの重要性
前田貴記 (慶應義塾大学医学部精神神経科講師)Strength of Intentional Effort Enhances the Sense of Agency
Minohara R, Wen W, Hamasaki S, Maeda T, Kato M, Yamakawa H, Yamashita A, Asama H.
Frontiers in Psychology  August 2016 Vol. 7 Article 1165

本論文は、東京大学工学部精密工学科の淺間一教授のグループとの共同研究で、筆頭著者の簑原凜君は修士課程の大学院生である。淺間教授はロボット工学の専門家で、特に人の生活を豊かにするためのサービス・ロボティクスがご専門である(介護支援ロボット、遠隔操作ロボットを用いての災害レスキュー、原発廃炉処理ロボットの研究開発など)。ロボットの遠隔操作において、その“操作性”を高める上で、Sense of Agency(以下SoA)は極めて重要な感覚であるが、特に巨大重機の操縦や繊細な作業を必要とするようなロボットの遠隔操作においては、タイムラグが500msec以上あったり、さらにそのタイムラグに揺らぎがあると、SoAが減弱し操作性は急激に低下してしまう。タイムラグやその揺らぎが全くないロボットを製作することは技術的に困難であるため、そのような制約条件のもとでも、SoAを強めることにより、遠隔操作における操作性を向上させるための基礎研究を進めている。

本論文では、Sense of Agency Task (Keio method)において、ボタン操作の際に必要な力の異なる3条件を用意することで(0.10N, 0.65N, 2.70Nの3種類)、タスクに臨む被験者の“エフォート”を変化させるという実験設定となっている。SoA判断に迷うようなあいまい条件では、よりエフォートを要する条件の方がSoAが強まることを示した。簡単に言えば、ロボットの遠隔操作において、操作者のエフォートを要する機器の方がSoAが強まり、操作性が高まるということである。これは、ロボット遠隔操作という極めて繊細な世界においては、極めて重要な知見である。今後、我々の生活において益々ロボットが導入されてくると思われるが、淺間教授らと伴に、SoAという観点から、遠隔操作ロボットの技術開発を進め、人の安全・安心な生活、そして豊かな生活に貢献できればと考えている。

なお、本論文の精神医学における意義について述べると、自我障害としてのSoA異常を来たしている統合失調症において、SoAに影響しうる諸条件が明らかになることは、SoA異常に対する治療・リハビリテーションにおいて、重要な示唆を得ることになろうかと思う。例えば、統合失調症においては、或る一群や或る条件下においてSoAが過剰に体験されていることが示されているが(Maeda et al., 2012; 2013, Koreki et al., 2015)、患者さんにエフォートを敢えて控えさせることでSoA異常を調律するという治療・リハビリテーション戦略も成り立つのではないかと考えている。

我々の、もう一つの射程として、今後、遠隔診療において遠隔操作ロボットも導入されてくるであろうが、ロボットを介しての遠隔精神療法についての基礎研究とすることも目指している。

(前田貴記、2017.3.28.)

解説 一体感への希求

手に持つ単純な武器でもいい。工具でもいい。楽器でもいい。あるいは自転車や自動車でもいい。人間は道具とともに歩んで来た。道具を作り、使うことで、人間は社会を作り、歴史を作って来た。そして優れた道具の条件は、人間と一体感が感じられることである。手になじむ。血が通う。体の一部になる。道具についてのこうした言語表現は、Sense of Agency (自己が行為の作用主体agentであるという意識)やSense of Ownership (身体・行為などが自分のものであるという意識)が、スムースな道具使用に不可欠であることを反映している。多くの人にとって最も身近な「道具」がPCになった現代もそれは同様である。近未来での汎用が予感されるロボットにおいては、SoAやSoOの重要性はさらに大きくなるであろう。

前田講師が東大工学部と共同で行った本研究は、そんな近未来を見つめた仕事である。一定の条件下においては、よりエフォート(努力)を要する条件の方がSoAが強まるという結果は、日常感覚的にも納得できるとともに、操作性とは楽なら楽なほどいいというわけではないことを再認識させられるという点で、きわめて示唆的である。努力というものを全く必要としない世界では、人間はSoAを失い、同時に生き甲斐も失うのであろう。さらには、どの程度の努力がSoA的には至適なのか、そしてその至適な努力量は、時代や文化によって変化するのかというのも興味あるところである。

そうした哲学的思索以前に、本論文の現実的な意義は大きく広い。研究を主導された東大工学部グループが専門とする災害ロボット、介護ロボット等の操作性向上は現代社会の喫緊の課題であるし、医学の領域でもすぐ目の前に来ている遠隔診療ロボット開発においても必須の基礎データになるであろう。

一体感という言葉は、その源である自分が一つのまとまりある存在であることが大前提であることは言うまでもない。この大前提が崩れるのが統合失調症であり、Sense of Agency Task(Keio method)はこの病の研究のために開発されたものである(本サイト 2014年3月 「統合失調症の自我障害についての実証的研究」参照)。ロボット研究に貢献するという展開は、このツールが開発者のSoAから離脱し自律性を獲得したかの如く感があるが、その自律性は工学の世界で新たな知見を充填され、統合失調症のリハビリテーションに応用が期待される姿となって医学の世界に帰還している。人間にとってSoAは重要だが、画期的な発展や真の創造性はSoAの彼方にあるのかもしれない。

(村松太郎、2017.3.31.)

うつ病におけるノルエピネフリントランスポーター密度と機能の検討
森口翔 (慶應義塾大学医学部大学院博士課程)Norepinephrine Transporter in Major Depressive Disorder: A PET Study.
Moriguchi S, Yamada M, Takano H, Nagashima T, Takahata K, Yokokawa K, Ito T, Ishii T, Kimura Y, Zhang MR, Mimura M, Suhara T.
Am J Psychiatry. 2017 Jan 1;174(1):36-41

これまで、うつ病の病態生理に、脳内神経伝達物質の1つであるノルエピネフリンの関与がセロトニンと並んで指摘されてきた。うつ病患者の死後脳では、脳の青斑核においてノルエピネフリンを再取り込みする機能のあるノルエピネフリントランスポーター(NET)密度が変化していることや、ノルエピネフリン放出を調節していると考えられているα2A-アドレナリン受容体密度が変化していることが報告されている。これらの研究やNETを標的としたデュロキセチンやミルナシプランといった抗うつ薬が精神科の臨床で広く使われていることから、うつ病の病態生理にノルエピネフリンが重要な役割を果たしていることが示唆されている。

しかし、これまでうつ病の生体においてNET密度やその機能を検討した研究はなく、多様なうつ病の病態においてノルエピネフリンがどのように関わっているかは不明であった。そこで本研究では、うつ病患者の脳におけるノルエピネフリン神経伝達機能を調べるため、生体の脳におけるNET密度を評価し、またノルエピネフリンが注意・覚醒などの機能に作用することに着目し、うつ病患者の認知機能の変化との関連を明らかにすることを目的とし研究を行った。

うつ病患者19名、健常者19名を対象に 脳内のNETに結合する(S,S)-[18F]FMeNER-D2という薬剤を用いてPET検査を行った。患者と健常者でこれらの定量値を比較したところ、患者の視床のNET密度が健常者よりも29%高いことが判明した。さらに、視床内部を機能的に異なる7つの領域に分割して、それぞれの領域のNETの密度を評価した。その結果、前頭葉と線維連絡を持つ領域において、患者のNET密度が28.2%高いことが明らかとなった。次に、患者のNET密度と注意機能との関連を検討するために注意機能検査を実施し、患者のNET密度と注意機能との相関解析を行った。その結果、視覚性注意を調べる検査(Trail Making Test A)において、患者の 視床のNET密度が高いほど、反応時間が速く、視覚的探索機能が高いことが明らかになった。これは、うつ病患者においては注意・覚醒機能はむしろ高まっており、その変化とノルエピネフリンシステムが関連していることを示唆している。

うつ病患者においてNET密度の異常増加 が示唆されたことは、うつ病治療ではノルエピネフリン神経伝達機能の調整が有効であることを示しており、今後、多様な症状が現れるうつ病の治療において、脳内の異常を想定した効果的な抗うつ薬の選択と治療戦略につながることが期待される。

(森口 翔、2017.2.20.)

解説 うつ病のPET研究を究める

うつ病という今や人類にとっての大問題となった疾患とPETという日進月歩のテクノロジー。この二つを組合せようというのは誰もが持つ発想で、現にうつ病のPET研究論文は増え続けている。だがそれは、「うつ病」という疾患に「PET」という検査を施行して、得られた「画像」を見れば何かわかるといった単純なものではない。そうした単純な発想で進められた研究は、うつ病について発生している混乱をさらに攪拌し破壊に向かわせるばかりである。

第一に、うつ病とは何かという問題がある。現代においてうつ病と呼ばれているものは、生物学的には雑多な疾患の集合体であり、それは診断基準をいくら厳密に用いても解決しない。しかも時として無節操になされている投薬が混乱に拍車をかけている。こうした問題をクリアして初めて、うつ病についての有意義なデータを得ることができる。

森口大学院生の本研究は、うつ病研究において最重要な、対象者の厳選という出発点に細心の注意が払われている。まず大前提としてのDSM診断をするのは当然として、19名中16名は抗うつ薬服用歴なし、3名は少なくとも2年間は服用なしのうつ病患者である。脳内の神経伝達物質研究においては抗うつ薬の影響のない患者を対象とすることがデータの純粋性のためには必須とはいえ、こうした患者をリクルートするのは非常に困難なことである。さらには大部分にあたる17名はMINIでメランコリー型の基準を満たすことで、現実的に可能な範囲でうつ病としての均質性を高めている。
結果は森口院生の解説文の通りで、視床のノルエピネフリントランスポーター密度について、そして注意機能との関連について、うつ病解明のための将来の研究に繋がる貴重なデータが得られている。

PETについては、結果として得られた画像の解釈が重大な問題を内在している。美しい一枚の写真を呈示され解説されると説得力は抜群で、その写真さえ見れば重要な知見が読み取れるかのように錯覚しがちであるが、PETを初めとする脳機能画像は統計的処理を駆使したいわばヴァーチャルな絵にすぎず、正しく解釈するためには絵の作成過程についての深い理解が必須である。

すなわちうつ病のPET研究は、
対象である「うつ病」とは、いったい何を見ているのか。
方法である「PET」とは、いったい何を見ているのか。
という、きわめて重要な二つの問題がある。

だが逆に言えば、この二つの問題をクリアすれば、うつ病のPET研究によって無限の新世界が開けることが大いに期待できる。

森口院生は本論文完成の後まもなくトロントの Research Imaging Centre, Centre for Addiction and Mental Health, Canada に留学し、うつ病におけるさらに高度で有意義なPETイメージング研究を追究している。

(村松太郎、2017.2.28.)

うつ病の気質、性格と治療効果: 6か月間前向き予備研究
工藤由佳 (慶應義塾大学医学部大学院博士課程、群馬病院)Kudo Y, Nakagawa A, Wake T, Ichikawa N, Kurata C, Nakahara M, Nojima T, Mimura M.
Temperament, personality, and treatment outcome in major depression: a 6-month preliminary prospective study.
Neuropsychiatric Disease and Treatment 2016; 13: 17-24.

うつ病は、発症契機、症状、経過、転帰に渡り、実に様々である。薬物療法が治療の中心であり、それだけで回復する人もいるが、再発も多く、寛解に至らない人もいる。長期的な回復を目指すには、自分の特徴を理解し、同じパターンに陥らないようにする精神・心理療法を行うことが重要になるが、そのためには、患者がどのようなタイプかを見極めなければいけない。しかし、これまでに提唱されてきたうつ病の分類には、治療選択を意識したものがほとんどなかった。

そこでGordon Parkerらは、非メランコリー性のうつ病に多く見られる気質と性格傾向に注目し、それぞれの気質と性格傾向に応じた精神・心理療法的アプローチを提案した。彼らは、The Temperament and Personality Questionnaire (T&P)を作成し、うつ病に多く見られる気質と性格傾向として、不安が強い、人に内面を見せない、完璧主義、易刺激性、社交回避、拒絶に敏感、自己批判的、自己中心的の8つを見出した。

我々は、日本語版T&Pを作成し、信頼性、妥当性を評価する研究を行い、臨床使用可能な尺度であるとして報告した(Kudo et al, 2016)。今回は、日本語版T&Pを使って、それぞれの気質と性格傾向を有した患者がどのような転帰をたどるかを観察する前向き研究を行った。

対象は慶應義塾大学病院と群馬病院のうつ病外来で治療を受けた20~75歳の非メランコリー性のうつ病患者51名。ベースラインでT&Pを行い、ベースラインと6ヶ月後にうつ病重症度の尺度であるハミルトンうつ病評価尺度を行った。

寛解するかしないかにT&Pの各傾向の点数がどの程度寄与するかを調べるため、6ヶ月後に寛解した患者(ハミルトンうつ病評価尺度≦7, n=23)と寛解に至っていない患者(n=28)を分け、T&Pの点数を比較した。結果は、寛解に至っていない患者の方が、人に内面を見せない、拒絶に敏感、自己批判的傾向で高い点数であった。ベースラインのハミルトンうつ病評価尺度を調整したロジスティック回帰分析では、寛解/非寛解に影響を与えたのは、人に内面を見せない傾向のみという結果であった。

今回の研究では、治療転帰不良を予測するのは、人に内面を見せない傾向であった。人に内面を見せない傾向を持つ患者は、自分の内面を人に語ることが苦手であるため、精神・心理療法でもセラピストに対し、自分の内面を語ることが難しい場合が多く、そのことが治療転帰不良と関係している可能性がある。今後は、人に内面を見せない傾向を持った患者に対して、Gordon Parkerらが提案している、対人関係スキル教育や不安へのアプローチなどを診療の中に取り入れ、彼らの回復を援助できればと考えている。

(工藤由佳、2017.1.26.)

解説 精神科医に治療意欲を問う

「メランコリー性うつ病には生物学的治療(薬物療法、電気けいれん療法)が有効」は、精神医学においてかなり確立している命題である。
 これに対比するのは「非メランコリー性うつ病には非生物学的治療が有効」であるはずだが、こちらの方は確立されているとは到底言い難い。確立どころか、検証の対象として述べられること自体が少ない。現代の精神科臨床ではむしろ非メランコリー性うつ病の受診者の方が数としては多いにもかかわらず、これはどうしたことか。一つ大きな理由は、非メランコリー性うつ病と呼ばれているものの中に多種多様なものが含まれていて、一つのカテゴリーとみなすことに大きな無理があるからである。

そこでオーストラリアのGordon Parkerらが提唱しているのが、気質と性格に基づくディメンジョナルな表現である。彼らのいう気質temperamentとは遺伝で規定されたもの、性格personalityとはそこに環境等の因子が加わって形成されたものを指している。彼らによるT&Pの日本語版を作成し、信頼性と妥当性を検証するという丁寧な作業を経て 工藤大学院生が着手した前向き研究の最初の成果が本論文である。

精神医学の50年を振り返ると、DSM、ICDが改訂を繰り返されることによって、精神障害の分類は発展を続けている。しかし治療法が分類と乖離しているのが現状である。治療という観点を無視した表面的なカテゴリー分類がなされているというもっともな批判もある。精神科医には分類意欲はあっても治療意欲がないのか。

工藤院生は、まず非メランコリー性うつ病という一群をカテゴリーとして抽出し、気質と性格というディメンジョナルな観点から転帰を調査した。うつ病についての臨床知見の実情にあわせてカテゴリーとディメンジョンをハイブリッドしたこの秀逸な研究デザインによって、治療計画に直結する貴重なデータを得ることに成功している。この優れて臨床的な研究を学位論文とした工藤院生が、これからの研究において、うつ病の治療についてのさらに新たな知見を重ねていくことが期待される。

(村松太郎、2017.1.31.)

眼窩部皮質と脳梁膝直下帯状回の損傷にて治療抵抗性うつ病が消失した例
船山道隆 (足利赤十字病院神経精神科 部長)Funayama M, Kato M, Mimura M.
Disappearance of treatment-resistant depression after damage to the orbitofrontal cortex and subgenual cingulated area: a case study.
BMC Neurology (2016) 16: 198

【報告の目的】脳卒中後うつ病post stroke depressionはよく知られた概念であるが、病前のうつ病がどのように変化するかという報告は極めて少ない。脳損傷後のうつ病の変化を調べることで、うつ病のメカニズムが明らかにできる可能性がある。

【症例の概要】本例は55歳発症の治療抵抗性うつ病のケースである。義父の介護が不十分であったと自責的に後悔したことをきっかけにうつ病が発症、3環系抗うつ薬やSNRIを長期に使用したものの発症後14年間うつ病が改善しなかった。うつ病の中でもTellenbachのいうメランコリー型であり、他者のために自分を犠牲にしがちであり、過剰な責任感や計画性を持ち合わせ、過去の出来事を過度に後悔していた。
69歳時に前交通動脈瘤破裂によるくも膜下出血を罹患した。重症度はHunt and Hess分類の3度であり、クリッピング術を行った。脳実質の損傷部位は眼窩部皮質と脳梁膝直下帯状回であった。患者は発症2ヶ月後には退院し、6ヶ月後には自立した生活を送れるまで改善した。各種神経心理検査では知能、記憶、遂行機能ともに明らかな低下は認めず、アパシーも認めなかった。一方でくも膜下出血直前にも自殺念慮を伴う重度のうつ状態であったが、くも膜下出血直後からうつ病が消失した。過剰な責任感や計画性はなくなり、適度となった。過去の出来事を後悔することもなくなった。その後81歳で亡くなるまで12年間うつ病は再発しなかった。

【本例からの示唆】損傷部位である眼窩部皮質と脳梁膝直下帯状回は、うつ病の消失に影響を与えたものと考えられる。Camille et al 2004は眼窩部皮質が「後悔」の感情と関連が深いと述べているが、本例は眼窩部皮質の損傷後に後悔することがなくなっている。脳梁膝直下帯状回は、治療抵抗性うつ病に対してMaybergらが行っている深部電気刺激のターゲット部位である。彼女らはこの部位が治療抵抗性うつ病では代謝が亢進しているため、深部電気刺激によって代謝を抑制することが深部電気刺激治療の根拠であると述べている。このように、本例のうつ病が消失した経過は神経心理学的にも脳生理学的にも矛盾しない。本報告はあくまでもケースレポートであるが、うつ病のメカニズムにひとつの示唆を与える可能性がある。

(船山道隆、2016.12.1.)

解説 逆にたどる真実

損傷が先で症状が後だ。
次に観察が来る。症状の綿密な観察。損傷部位の正確な同定。そして似た損傷部位、似た症状の多数例の観察。さらには他部位損傷例の観察による二重解離の証明を経て、脳の特定部位と特定症状の関連性が確立する。この営みが数限りない回数繰り返され、脳機能の局在が明らかにされていく。これがBroca以来の神経心理学の歴史である。そして20世紀末に脳機能画像というテクノロジーが導入されてから、脳機能のマッピングは精緻化が急速に進行している。機能局在という意味では、脳の全貌の解明はすぐ手の届くところにあるとさえ感じられる時代になった。

だがこの方法論ではどうしても到達できそうにない疾患がある。
内因性の精神障害である。

もちろん脳の局在損傷によって、内因性の精神障害に似た症状が現れることは多数報告されている。しかしそれは似てはいても非なる症状である。たとえば統合失調症様(Schizophrenia-like) と統合失調症(Schizophrenia)は、症状を「幻覚」「妄想」という単語に矮小化してしまえば差異は見えなくなるが、疾患の本質にかかわるレベルにおいては両者は全く異質のものである。
一方、うつ病では事情が異なるようにも思える。たとえばpoststroke depressionは、”depression” であって “depression-like” ではない。脳損傷によって、確かにdepressionは現れる。
だがこれはdepressionという用語の多義性に起因するトリックである。
英語の ”depression” と日本語の「うつ病」の意味の違いはこの際措くとしても、うつ病depressionという語はあまりに多種多様の状態を包含しており、もはや「うつ病」とひとまとめにして研究の対象にした瞬間から結果の無意味さが見えるといった状況になっている。
だが内因性うつ病は別だ。Tellenbachをはじめとする慧眼によって見出された内因性うつ病は、うつ病depressionの理念型Idealtypusとしての地位を現在もなお維持し続けている。
そしてこの内因性うつ病は、脳損傷による巣症状として現れることは皆無と言ってよい。それは内因性精神障害の病理の深さ・複雑さの証であるといえばその通りであるが、脳機能との関連を具体的に見出せないことが、内因性精神障害の病態解明の、そして治療開発の進歩を阻んでいるのもまた事実である。

船山部長の本研究は、この状況を大きく打開する端緒になる画期的な論文である。14年間治療抵抗性の内因性うつ病であった患者が、前交通動脈瘤破裂によるくも膜下出血を機に突然完全寛解した。この論文に報告されている事実はこれのみであり、症状が先で損傷が後という点を除けば、シンプルな一例報告にすぎない。だがそこにあるメッセージは歴史的な重みを持っている。すなわちこの論文は、古来から内因とされていた「何か」が脳内にあることの証明になっているのである。
歴史的課題の証明は、直ちに近未来の扉を開く。それは内因性精神障害の根治療法の開発である。
うつ病に限らず、難治性の精神疾患においては、脳に直接介入する手法が画期的な治療法として期待されている。その実現にあたっては技術的にも倫理的にも解決しなければならない様々な障壁があるが、「内因」が脳内にあること、そしてある程度までは局在することの証明がなければ、脳への介入はその出発点において根拠が失われる。本研究の症例の損傷部位である脳梁膝直下帯状回は、Maybergらの治療抵抗性うつ病の治療としての脳深部刺激Deep Brain Stimulationターゲット部位に一致しており、本論文は彼女らの治療の正当性を側面から支持するものであると言える。

損傷が先で症状が後に来るのが臨床の常識であるが、それを逆にたどった船山部長の研究は、今まで姿を隠していた内因性うつ病の真実に接近している。そしてその先には治療という光が見えている。

(村松太郎、2016.12.31.)

精神医学におけるスペクトラムの思想 学樹書院 2016年11月出版
責任編集 村井俊哉+村松太郎

解説 精神科診断学の哲学論稿集

今どき希有で貴重な硬派の出版社である学樹書院の重厚なMOOK、<<精神医学の基盤>>の第3巻として出版されたのが本書である。このシリーズ、”Power MOOK” という名にふさわしい力のこもった本がすでに2冊出版されているが(「薬物療法を精神病理学的視点から考える」と「うつ病診療の論理と倫理」)、本書もこれらに並ぶpowerfulなもので、京都大学の村井教授のまえがきに記されている通り「精神科診断学の哲学論稿集」と冠されるにふさわしい仕上がりになっている。

診断とは精神科に限らずカテゴリー的に定義されるのが通例であるが、いまだ本態不明の精神疾患をクリアにカテゴリー分類することには深刻な矛盾が内在していることは否定し難い。そこで近年では「自閉症スペクトラム」「統合失調症スペクトラム」のように、連続的に捉えようという「思想」が優勢になって来ている。タイトルの「精神医学におけるスペクトラムの思想」はそんな現代の状況を指している。

精神の病というものを真摯に見つめれば、マニュアルや評価スケールはそのごくごく限られた一面との接点しか有しておらず、病の表面にある薄皮をなぞっているにすぎない。病の真実に接近するためにはいわば哲学的ともいえる論考が必須である。それを深く理解している執筆陣の熱意が本書に結晶している。

当教室関係者は以下の項に登場している。

■対談 精神医学におけるスペクトラムの思想  村井俊哉/村松太郎
本書のテーマをめぐる、お茶の水の学士会館での対談である。印刷された記録を読むと対等の議論が展開しているような雰囲気が流れているが、実際の対談場面では村井教授の深い学識に感心させられるばかりであった。

■統合失調症におけるスペクトラムというメタファーの導入の意義と問題点
前田貴記/沖村宰/野原博
統合失調症の診断という、精神医学の根底に流れる大問題について新たな光を当てた力作。スペクトラムというと「連続」とイメージされることが多いが、本来的にはそれは不正確な捉え方であって、事物をある軸にそって並べ直したときに立ち現れたものこそがスペクトラムである。このような本質論に立脚して進める論はいかにも前田講師らしく迫力に溢れたものになっている。

■カテゴリー/デイメンジョンと精神鑑定  村松太郎
刑事事件・民事事件を問わず、法廷では精神疾患をかなり強引な手法でカテゴライズすることがしばしば見られている。それは、その場で善悪や勝ち負けの結論を出さなければならないという法的争いの性質に鑑みれば目的にかなっていると見ることも可能だが、精神医学の立場からはいかにも恣意的・非科学的な手法という感が免れない。しかし振り返ってみれば、精神医学界で行われている診断分類についても、実は水面下には同様の問題が潜んでいるのではないか。治療や、研究や、時には商売といった目的論によって、科学を、そして事実をも無視した恣意的なカテゴリー化がなされているのではないか。法廷という異界から精神医学を照射した論考である。

■スペクトラムの概念から考える精神科薬物療法  冨田真幸
スペクトラム概念の拡大は過剰診断の拡大につながりさらには過剰な薬物療法につながるという、現代の精神医療で進行しつつある問題に厳しい警鐘を鳴らしている。診断論が中心の本書にあって、診断の先にあるステップであり、かつ、医療で最も重要な目的である「治療」をテーマにした貴重な作品である。

■高次脳機能障害、特に前頭葉機能を抑制障害として捉える  鹿島晴雄
神経心理研究室の創始者である鹿島教授による巻頭エッセイである。神経心理学についての鹿島教授の思索の骨子が3ページに凝縮している。

(村松太郎、2016.11.30.)

インターネット依存の概念と治療
Muhammad ElSalhy (慶應義塾大学医学部大学院博士課程)
BRAIN and NERVE ----- 神経研究の進歩 2016年10月号
ムハンマド・エルサルヒ、村松太郎、樋口進、三村 將

本稿ではインターネット依存の定義から症状など細かい内容に加え、なぜインターネットに依存してしまうのか、その治療方法についてまとめた。

Ⅰ インターネット依存の概念

インターネット依存の定義だが、現状まだ統一されていない。今のところ、「インターネット使用の過剰あるいはコントロール困難なとらわれ促迫・行動で、結果として障害や苦悩が発生する」とされている。

インターネット依存は行動嗜癖の一種である。症状としては、Salience(オンライン活動が人生の最大の重要事項となり、他の思考・感情・行動を圧倒してしまう)や耐性(インターネット使用の時間、質などが増えてしまう)などの構成要素が当てはまる。

インターネット依存のリスクファクターとして、
①年齢と性別
②精神疾患
③欲望モデル
④家族内のコミュニケーションや家族機能の不全
⑤性格傾向
などが挙げられる。

Ⅱ ゲーム依存とSNS依存

インターネット依存のタイプとして、大きくゲーム依存とSNS依存のカテゴリーが挙げられる。

1.ゲーム依存
1990年代から現れたオンラインゲームはパソコン、ノートパソコン、スマートフォン、ポータブル ゲーム機など、様々な機械を通して、インターネット環境でさえあれば、どこからでもアクセスできるゲームであり、同時にたくさんの参加者がリアルタイムでコミュニケーションしながら、争う・協力するなどしつつゲームが進められていくもので、終了時点というものが存在しない。また、一人でできるタスクもあれば、チームで協力しなければならないタスクもあり、ソーシャルな要素がある点がオンラインゲームとオフラインゲームの最大の違いであるとも言える。このため、多くの人々にとってオンラインゲームの方が楽しく満足感が高く、そのため実生活を浸食するという結果になっている。

2.SNS依存
SNS (ソーシャルネットワークサイト)とは、現実の友人や見知らぬ人とコミュニケーションするバーチャルコミュニティを指す。 SNS依存で最も問題になっているSNSはFacebookである。オンラインゲームと違って、SNSは現実(オフライン)の友達との関係を維持するために使えるのが魅力だとされているが、時にはそのSNSを常に チェックしないとはみだし者になったり、周りのみんなについていけないと感じ、オンラインソーシャルネットワークに積極的に参加することに強いられるというパターンも少なくはない。

また、SNSでは、対面では言いにくいことも脱抑制的に言えるようになるため、友人関係の維持ではなく破壊につながることもしばしば認められている。

SNS依存には、SNS特有の原因もいくつかある。SNSは本質的に自己中心的な構造を有しているので、自己愛性格を満足させやすいという特性がその一つである。

Facebookが最も依存性が高いことの理由については仮説がいくつかあるが、他人と連絡できるだけでなく、電話、ゲームなどの様々な娯楽が内在しており、多様なモチベーションを満足させるという特性があるからという理由が根強い。

Ⅲ インターネット依存の予防・治療

インターネット依存に限らず、行動嗜癖の治療目標は「完全にやめる」ことではなく、使用のコントロールが目標になる。そして何より重要な最終目標は、本人の幸福である。依存に陥っている本人はインターネットをしている時が最も幸福だと思っているが、そもそもそれが本当に幸福であるかという問いを発する必要がある。

インターネット依存は、欲望が満たされることがないために、ずっとやり続けているのである。治療者の役割は本人にインターネットをやめるよう指示することではなく、本人とソーシャルネットワークやゲームについて、そしてなぜ彼らが依存に陥ったかを話し合うことである。

患者本人にとって重要なこととして、自身の強い点、弱い点、欲望についてよく知り、それらを踏まえた将来を考慮することも挙げられる。こうしたことによって本人とともに幸福を追求していくことこそが治療者の役割と言える。

適切なゲームを、適切な時間だけ行うのであれば、ポジティブな点はいくつもある。たとえば自尊心を高めたり、反射神経、反応時間、記憶力、論理的思考、戦略的思考、社交的スキル、コミュニケーションスキルなどを改善することができる。

(ムハンマド・エルサルヒ、 2016.10.10.)

解説 時を超え空間を超え

エジプトからの留学生であるムハンマド・エルサルヒ院生(Dr. Muhammad ElSalhy)は、アレキサンドリア大学医学部卒の医師である。流暢に日本語を話し、読み、書く。上記の紹介文もすべて彼が一人で書いたもので、日本人の手は一切加わっていない。ムハンマド院生はもちろん英語もできるし、ドイツ語もできる。母国語はアラビア語である。
そんな国際人そのものの彼の大学院での研究テーマは、インターネット依存の国際比較である。『インターネット依存の概念と治療』と題された本論文は『BRAIN AND NERVE --- 神経研究の進歩』の特集「アディクション ----- 行動の嗜癖として」に収載されている。もちろんすべて日本語で書かれている。

ムハンマド院生の上記第一文に記されている通り、インターネット依存にはまだ定義がない。それどころか、存在そのものさえ公式には認知されていない。2013年に出版されたDSM-5の「物質関連障害および嗜癖性障害群 Substance-Related and Addictive Disorders」の下位項目に「非物質性障害群 Non-Substance-Related Disorders」があるが、そこにはインターネットに関連する障害はない。DSM-5で唯一記載があるのは、付録的位置づけであるSection Ⅲの「4 今後の研究のための病態」の「インターネットゲーム障害 Internet Gaming Disorder」のみである。
しかし実際には、インターネットの急速な普及に伴い、インターネット依存は各国で深刻な問題になっている。そしてそれは、文化によって、ゲームよりむしろSNS依存が中心になるなど、様々な形を取る。ここでいう文化とは、インターネット環境を含む。たとえば通信速度の違いが依存形態に大きく影響する。一例を挙げれば、アクションゲームへの依存は、通信速度が一定以上に速い環境の国ではじめて成立する現象である。そしてインターネット環境とは、テクノロジーの進歩に伴い、また、各国の政治経済的事情により、刻々と変化していく。
DSM-5が如何なる扱いをしているかにかかわらず、インターネット依存は「行動嗜癖」の一つに位置づけられる病態である。行動嗜癖の脳科学がいま大いに注目されていることは、今回のBRAIN AND NERVE誌が特集として取り上げていることにも如実に表れている。

このように、インターネット依存の研究では、脳機能から文化歴史まで広大な領域を視野に入れることが求められる。それはムハンマド院生のような真の国際人にしてはじめて可能になるものである。彼が現在拠点を置くアジア、そしてホームグラウンドである中東・アフリカ、さらには西欧までの地球規模の空間に目を向け、また各国の環境の時間的変化を精密に把握しつつ進めているムハンマド・エルサルヒ院生の研究の大成が期待されるところである。

(村松太郎、 2016.10.29.)

有名人の顔が含まれる社会的出来事写真を用いた遠隔記憶検査作成の試み
江口洋子 (慶應義塾大学医学部精神神経科研究員・心理士)・穴水幸子・斎藤文恵
認知リハビリテーション, 21(1), 5-20, 2016
江口洋子1)、穴水幸子2)、斎藤文恵、阿部晶子2)、松田博史1)、3)、三村 將、加藤元一郎
1)埼玉医科大学 国際医療センター
2)国際医療福祉大学 保健医療学部 言語聴覚学科
3)国立精神・神経医療研究センター 脳病態統合イメージングセンター

記憶障害は大別すると、発症後に新しいことが覚えられないという前向性健忘と、発症以前の過去のエピソードに関する記憶を思い出すことができないという逆向性健忘に分類される。逆向性健忘が生じると、過去の思い出を家族や友人と共有できなくなり、そのことが周囲の者に失望や喪失感、心理的な拒絶を生み出し、また患者自身も周囲のそのような態度に接し、不全感や自己の不確実感を感じることがある(先崎ら、1997)。また、脳外傷後に家族内で取り決めていたルールを忘れ、日常生活で問題が生じる場合もある(八木ら、2013)。
逆向性健忘に関して、客観的に、かつ平易に評価できることは、患者本人と周囲の者が症状の程度を共有し、日常生活で生ずる問題点を予測して事前に対応策を立てたり、今後の認知リハビリの方略を考案したりするためにも重要である。
本研究では、近年の社会的出来事に関する記憶について、臨床的に有用な検査を作成することを目的として、従来の視覚性遠隔記憶検査(江口ら, 1996)をもとにして検査可能な期間を延長した遠隔記憶検査を作成した。さらにその信頼性と妥当性についても検討したので報告する。

本研究では、20歳代~80歳代の健常被検者199名に対して、有名人の顔が含まれる1970年から2010年までに生じた社会的出来事写真31枚を見せ、有名人の①名前の再生、②名前の再認、③出来事に関するキーワードの回答を求め、世代別の各得点率を調べた。作成のための調査は、従来の対面で調査する方法に加えて、インターネットを用いて広範囲に居住する者から簡便にデータを収集する方式を採用した。
検査の信頼性は、検査-再検査法により得点率の級内相関係数(interclass correlation coefficient ; ICC)を算出した。結果、合計得点率の1回目は76.3%、2回目は82.2%で、ICCは0.87となり、強い相関を認めた(p < 0.01)。
次に本検査を脳損傷患者の臨床評価に用いることの妥当性を検討するために、健忘症例3例に本検査を実施した。その結果、本人や家族の聴取から得られた健忘症患者の逆向性健忘の様態を、本検査の結果からも説明できた。
以上のことから、本検査が逆向性健忘を示す客観性指標として有用であることを示唆できた。

検査の問題点と限界として、本検査の項目に対する個人の社会的出来事に関する暴露の差の存在と、項目を追加して改正し続けなければならないという作成上の問題が挙げられる。さらには、近年の生活様式の変化と多様性が社会的出来事の記銘におよぼす影響についても、今後の検査の更新時には考慮する必要がある。

(江口洋子、2016.9.27.)

解説 シジフォスの岩を運び上げる

高次脳機能の中で、記憶研究の歴史は古い。その理由は複合的だが、一つの大きな要因は記憶という機能の測定のし易さであろう。呈示された情報をどれだけ覚えられるかを調べる。この単純な再生・再認パターンの検査で、記憶はかなり定量的に測定可能である。

だが遠隔記憶についてはそうはいかない。
記憶検査が単純と言えるのは、再生・再認課題の内容が単純な場合である。遠隔記憶検査のそれは決して単純ではない。ある意味いかなる検査課題より複雑である。遠隔記憶検査課題の内容は過去に獲得した情報になるが、一人ひとりの被検者についての詳細な過去は知り得ないからである。そこで有名な社会的出来事のリストを課題にするのが定法となっているが、ニュース等への曝露の程度は被検者によって大きく異なるという性質上、標準化するまでには繊細な作業が必要になる。また、いったん精密に標準化しても、社会的出来事は日に日に更新されるから、検査は日に日に古くなる。遠隔記憶検査の作成とは、永遠に改正を繰り返さなければならないという点で、シジフォスの岩を思わせる仕事なのである。江口研究員はこの困難な仕事を1996年に行い、「視覚性遠隔記憶検査」として完成させたが、今回、新たに作成したのが本研究「有名人の顔が含まれる社会的出来事写真を用いた遠隔記憶検査作成の試み」で発表された検査である。

現代の記憶研究は、脳画像研究から遺伝子研究や動物研究と多分野を横断するものに発展しており、臨床研究ではこうした分野とのクロストークが益々重要になっている。そのためには障害を正確に反映した定量化が必須であるところ、江口研究員が長年不断に取り組んでいる遠隔記憶検査はまさにそれに合致しており、 広大な学問領域と交流するためのツールとしても限りない意義を有している。

ギリシア神話のシジフォスの岩は、山頂に達する直前で転がり落ちることを繰り返すことから、徒労の象徴とされる。しかし江口研究員らの遠隔記憶検査は、完成・論文化という山頂に達した。それは日に日に更新される運命にある山頂であるが、そこに達して初めて見える風景は限りなく広い。最大限の活用が期待されるところである。

(村松太郎、2016.9.29.)

【1】Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test(RDST-J)数字変換課題に関する検討
森山泰 (駒木野病院精神科診療部長)
Yasushi Moriyama, Aihide Yoshino, Taro Muramatsu, and Masaru Mimura
Detailed analysis of error patterns in the number transcoding task on the Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test (RDST-J)
Psychogeriatrics. 27 JUN 2016 | DOI: 10.1111/psyg.12207 [Epub ahead of print]

【2】Japanese version of The Rapid Dementia Screening Test (RDST-J) スーパーマーケット課題のcluster数,switch数に関する検討
森山泰 (駒木野病院精神科診療部長)
Yasushi Moriyama, Aihide Yoshino, Taro Muramatsu, and Masaru Mimura
Detailed analysis of the Supermarket task included on the Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test
Psychogeriatrics. 2016 Jun 30. doi: 10.1111/psyg.12209. [Epub ahead of print]

【1】Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test(RDST-J)数字変換課題に関する検討

Japanese version of the Rapid Dementia Screening Testに含まれる数字変換課題は,漢字表記とアラビア表記による数表現の相互変換課題で以下の4課題からなる:209→二百九,4054→四千五十四, 六百八十一→681,二千二十七→2027

軽症アルツハイマー病(Alzheimer’s disease: AD)の患者さんに本検査を施行していく中で681を60801,600801などと間違えることが多い臨床的印象を持った.すなわちこれは人類の偉大な発明の1つである“アラビア数字の位取り”に関する障害であり,そこに本疾患の認知障害の本質に近いものを感じ,その他の誤りを含めまとめたいと思ったのが本研究の動機である(なおアラビア数字は0から9までの10の数字で全ての数が表現できる位取り記数法である一方で,漢数字は桁を表す漢字が存在する混合型記数法である).

本研究ではADの重症,軽症群で,そのさまざまな誤りパターンの出現頻度が異なるかを検討した. 対象は250例で, MMSE12~26点, CDR 0.5~3である.誤りの分類はこれまで本邦で報告されているもの15個と,それ以外の従来報告されていない誤りの計19種とし,その出現頻度を,軽症AD群(CDR0.5~1)・重症AD群(CDR2~3)で統計学的に比較した. 誤りパターンは以下の19種である:

1)209→二百九課題
数字の誤り(例:209→三百九); 桁語の誤り(例:209→二千九); shift error(保続的誤り;例:209→二0百九); 簡略化した表記(郵便番号表記時の記載法;例:209→二〇九); 従来報告されていない誤り

2)4054→四千五十四課題
数字の誤り(例:4054→五千五十四); 桁語の誤り(例:4054→四百五十四); shift error(保続的誤り;例:4054→四0千五十四); 簡略化した表記(郵便番号表記時の記載法;例:4054→四〇五四); 従来報告されていない誤り

3)六百八十一→681課題
数字の誤り(例:六百八十一→781); 複数積み重ね表記(位取り表記の誤り;例:六百八十一→60801); shift error(保続的誤り;例:六百八十一→6百81); 1の誤り(181を“いっひゃくはちじゅういち”と読まないなど日本語では“1”に関する独特の法則がある;例:六百八十一→680); 従来報告されていない誤り

4)二千二十七→2027課題
数字の誤り(例:二千二十七→3027); 複数積み重ね表記(位取り表記の誤り例:二千二十七→20207); shift error(保続的誤り;例:二千二十七→20千27); 従来報告されていない誤り

“Shift error”,“桁語の誤り”,“数字の誤り”は操作的に2字までとし,それ以上の場合は“従来報告されていない誤り”に含めた. また“従来報告されていない誤り”以外は複数の誤り分類を認めた.
その結果, 重症AD群では4課題全ての“従来報告されていない誤り”の出現頻度が有意に多い一方で, 軽症AD群では4054→四千五十四課題の“桁語の誤り”, “簡略化した表記”の出現頻度が有意に多かった.その他の13の誤りでは出現頻度に有意差を認めなかった.

以上, 位取りの誤りはAD重・軽症群においてその出現頻度に統計的有意差を認めなかったが,ADの重・軽症群では出現頻度の異なる誤りパターンが存在することが示された.

【2】Japanese version of The Rapid Dementia Screening Test (RDST-J) スーパーマーケット課題のcluster数,switch数に関する検討

Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test (RDST-J)に含まれるスーパーマーケット課題は1分間の制限時間内に「スーパーマーケットで買えるもの」をできるだけいってもらう言語流暢性課題である. 本検査をおこなっていく上で健常群では「野菜,えっと白菜,キャベツ,トマト,ニンジン」といったようにまず上位概念を想起したあとに下位概念を想起する戦略をとるのに対し,軽度認知症の患者さんでは下位概念を想起しにくいといった臨床的印象をもった.文献を調べるうちにこれらをより詳細に調べるツールとしてTroyerらの定義するCluster・Switch数があることを知った.すなわち回答をClusterと呼ばれるカテゴリーに分類する(表参照). Mean Cluster数は原本では各々の分類の回答数から1を引き,その総計をもとめ,それを回答されたカテゴリー数で割る.Switch数は1語以上のclusterの総数を求める.例えばスーパーマーケット課題での回答が「リンゴ,バナナ,ニンジン,トマト,鶏肉,豚肉」の場合,Mean Cluster数は1 (2 [リンゴ,バナナ]-1 + 2 [ニンジン,トマト] – 1 + 2 [鶏肉,豚肉] – 1=3, 3÷3=1). 一方Switch数は3 (3つのサブカテゴリーすなわち [果物, 野菜, 肉])となる.

ここでTroyerらが定義した各流暢性課題におけるカテゴリー数は言語流暢性課題(F,A,S)はいずれも4カテゴリーなのに対しスーパーマーケット・動物課題は14カテゴリーである.すなわちカテゴリー数が多いスーパーマーケット・動物課題はCluster,Switch数のより詳細な検討が可能であることが予測される.

またスーパーマーケット課題は14カテゴリー(上位概念)が多分野にわたり,それに属する下位概念に含まれる用語も多いため「上位概念を想起したあとに下位概念を想起する戦略」を頻用するのでより認知症の患者さんの認知障害をより鋭敏に検出できると考えた.そこで今回アルツハイマー型認知症(AD)の重症度とCluster,Switch数との関連を調べた.さらにCluster数とSwitch数は一方が減ると一方が増える(すなわちtrade off)の関係があると考えられこれについても調べた.

対象は very mild ~ severe AD250例で, MMSE12~26点,Clinical Dementia Rating 0.5~3と対照群49例である. スーパーマーケット課題の回答をTroyerらの原法をもとに,文化的違いなどを考慮し若干の改変をおこなった(表).

Cluster数は原法と同様果物といった上位概念語はりんご,バナナといった下位概念語が同時に回答された場合正解数に含めない一方で,原法と異なり統計学的検討をおこないやすくするため回答されたカテゴリー数で割ることをおこなわなかった.たとえばりんご,バナナ,果物, 鶏肉,豚肉が回答された場合,2[りんご,バナナ,すなわち果物はカウントしない]-1+2[鶏肉,豚肉]-1 =2 この2を2[果物,肉の2つのカテゴリー数]で割らないのでCluster数は2となる. Switch数は原法と同様1語以上のclusterの総数(たとえばりんご,バナナ,果物が回答された場合すべてcluster1に含まれるのでSwitch数は1となる)を求めた.

結果を以下に示す:1)Switch数とCluster数いずれもCDRが高値になるのに応じて低値となっていた;2)CDR0.5は健常群と比較してCluster数は低下していたが,Switch数は健常群と有意差を認めなかった;3) Switch数とCluster数は軽度の相関を示した(r=0.34, p<0.01)

以上1)ADのスーパーマーケット課題におけるCluster・Switch数は認知症の重症度に応じて低下していた;2) Hodgesらは意味記憶障害の立場から軽症ADにおいては上位概念が下位概念に比べて相対的に保たれているとしているが,本研究でも同様であった(すなわちCDR0.5では上位概念(Switch数)でなく下位概念(Cluster数)が障害されていた);3)Cluster数とSwitch数はtrade offの関係になく,むしろ共通する部分が多かった.

表:スーパーマーケット課題における14のcluster
1.果物:りんご,バナナ,マンゴなど
2.野菜:アボガド,豆,にんじんなど
3.乳製品:チーズ,卵,ヨーグルト,牛乳など
4.肉:ベーコン,鳥,魚,ハンバーガーなど
5.飲料:コーヒー,牛乳,ワインなど
6.調味料(完成した料理に使用する):ケチャップ,マーマレード,サラダドレッシングなど
7.香辛料(料理完成前に使用する):こしょう,塩,バニラなど
8.菓子類:キャンディー,ケーキ,アイスクリームなど
9.穀物:パン,マカロニ,米など
10.パン,ケーキを作る時の試料:ふくらまし粉,とうもろこし粉,塩など
11.弁当などの完成品:サラダ油,ケチャップ,スパゲッティーなど
12.雑貨:ティッシュ,雑誌,切手など
13.大豆加工品:納豆・味噌・豆腐など
14.魚類・海藻類:さしみ・魚・ちくわ・さつまあげ・こんぶ・わかめなど

(森山泰、2016.8.12.)

解説 検査の真価とは

結果がスコアとして得られる。それが検査の長所であることは言うまでもない。ではなぜスコアとして得られることが長所なのか。
スコアが客観的だからか。
そうではない。
スコアが臨床症状を反映しているからである。
より正確には、「臨床症状が、スコアという客観的なものに反映されているから」ということになろう。
このとき最も重要なのは、「スコアが臨床症状を反映している」ことであって、「スコアが客観的」というのは、そのスコアが臨床症状を反映しているという大前提あってのことである。当然すぎるくらい当然のことだ。
だがこの当然すぎるくらい当然のことはしばしば忘れられがちである。臨床症状から切り離されたスコアの解析のみが前面に出された研究論文がとても多いのが世の中の現状である。臨床症状とスコアの対応関係が精密でなければ、スコアをいくら統計的に精密に解析しても無意味だ。確かにスコアの解析に集中したほうが科学的な作業に見えるし、論文を多く生産しやすいであろう。しかしそれは明らかに本末転倒である。この愚行を避けるためには、臨床症状をスコアに反映させるべく、検査を不断に改良していくことが必要である。

まさにそれを実践した仕事が、森山博士の『Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test(RDST-J)数字変換課題に関する検討』と『Japanese version of The Rapid Dementia Screening Test (RDST-J) スーパーマーケット課題のcluster数,switch数に関する検討』である。森山博士がそもそもRDST-Jに着目したのは、汎用されている時計描画課題よりも、RDST-Jのほうが軽度認知症の臨床症状をよく反映しているという臨床的印象であった。(本サイト 2015.10. 「軽症アルツハイマー病の診断補助には,時計描画課題よりも日本語版Rapid Dementia Screening Testが有用である」参照)
RDST-Jは数字変換課題とスーパーマーケット課題から成る検査バッテリーである。森山博士はこの検査を認知症の臨床で施行していく中で、数字変換課題では位取りの誤りが多く、スーパーマーケット課題では、健常者では「野菜、えっと白菜、キャベツ、トマト、ニンジン」といったようにまず上位概念を想起したあとに下位概念を想起する戦略をとるのに対し、軽度認知症では下位概念を想起しにくいという印象を持ち、これらを実証的に示すことで上記2つの論文をまとめあげた。

当神経心理研究室創始者である鹿島晴雄前教授(現・国際医療福祉大学教授)は、神経心理学的検査を定量的アプローチと定性的アプローチに二分している。定量的アプローチとは、検査結果がスコアとして定量的に得られるものを指す。定性的アプローチについては次のように述べている:

定性的アプローチ
主として臨床家が開発、発展させてきたアプローチである。個々の被検者によりある程度の柔軟性、可変性をもった検査課題を用い、結果はスコアないし現象的な記述として得られる。結果は臨床所見を優先させそれに基づいて主観的、定性的に意味づけされ、判断される。臨床家が脳損傷者の診療経験を通じて工夫してきたいわば”直感的”検査であり、標準化は難しく、したがって基準もないものが多い。検査の妥当性は臨床的経験から保証される。検査手技は個々の被検者の状態に応じた柔軟な変更、修正を必要とするものが多く、厳密な定式化は困難である。検査の信頼性は検者の経験、能力に大きく左右される。
神経心理学的検査の理想は定量的アプローチと定性的アプローチの長所をあわせもつ、いわば”中庸的”アプローチであろう。
(神経心理学的検査 --- 定量的アプローチと定性的アプローチ.
現代精神医学大系 年刊版 ’88-A. 中山書店、東京. 1988.)

そして鹿島教授は、中庸的アプローチの実例としてウィスコンシンカード分類検査を挙げている。この検査は名前の通りウィスコンシン大学で開発された前頭葉機能検査だが、実際に多数の臨床例に施行してみると、前頭葉損傷者に特徴的な所見のいくつかがスコアに反映されないことが明らかになってきた。そこで当神経心理研究室で原法に改良を加えて完成したのが現在汎用されている48枚のカードを用いる方法(KWCST; 慶應式ウィスコンシンカード分類検査)である。

森山博士の手によるRDST-Jの改良・進化は、KWCSTの開発過程を彷彿とさせるものである。鹿島教授は「理想」と呼んだが、定量的アプローチと定性的アプローチの両方を併せ持つことこそが、検査の「真価」と言うべきであろう。森山博士の努力によって、RDST-Jが「理想」に接近し、「真価」が広く知られることが大いに期待される。

(村松太郎、2016.8.24.)

アルツハイマー病の妄想と神経基盤
仲秋秀太郎(慶應義塾大学医学部精神神経科特任准教授)Nakaaki S, Sato J, Torii K, Oka M, Negi A, Nakamae T, Narumoto J, Miyata J,
Furukawa TA, Mimura M. (2013) : Decreased white matter integrity before the onset of
delusions in patients with Alzheimer's disease: diffusion tensor imaging.
Neuropsychiatric Disease and Treatment, 9, 25-29.

アルツハイマー病の患者では、ものとられ妄想を認めることが多い。
「財布がないので、誰かに盗られた」という内容は、了解可能である。
統合失調症でしばしば出現する了解不可能な妄想とは異なる。認知症の妄想は認知機能低下による一種の誤認である。しかし、今のところ妄想という定義以外の適切な用語がないので、認知症の妄想を「妄想」と呼ぶ。この認知症の妄想には、認知症の認知機能低下の多様な特性を反映しているのかもしれない。

認知症(アルツハイマー病)で出現する妄想は出現頻度が高く、介護者の負担にもなるため、認知症における臨床研究において重要な課題である。アルツハイマー病の精神症状(妄想)には、年齢や性別、罹病期間などは関連しないといわれているが、その発現機序はいまだ不明な点が多い。著者らは、アルツハイマー病において精神症状が発病する患者では、その発病が顕在化する前から、皮質間の連合線維などの白質線維の微細構造異常を認める可能性が高いと推測した。しかし、現時点では、頭部MRI画像による白質線維束に着目した認知症の精神症状の出現予測に関する研究は、国内外で確立されていない。

本研究では、精神症状(妄想)が併発していない軽度のアルツハイマー病患者を1年間追跡調査し、ベースラインの時点で撮影した頭部MRI画像の拡散テンソル画像をFSLで解析した。

縦断的な経過で妄想の出現したアルツハイマー病患者は、妄想が出現しなかったアルツハイマー病患者に比較して、ベースラインでの拡散テンソル画像の左頭頂葉―後頭葉、脳梁体部などのFA(拡散異方向性)値が有意に低下していた。

左頭頂葉―後頭葉、脳梁体部のFA値の低下は、アルツハイマー病の精神症状出現の脆弱性と関連している。これらの部位の白質繊維の微細な構造異常を認める患者は、外界の情報の認識機能が低下し、情報の誤認がおきやすいと推測される。

本研究で、アルツハイマー病の精神症状への脆弱性とそれに関連した脳基盤を国内外で初めて検討し、明らかにした意義は重要である。アルツハイマー病の精神症状の発現に関与する新たな病態モデルを提供でき、発病前からの早期介入が可能になり、精神症状の発病予防や予後の改善が期待される。

アルツハイマー病で妄想が出現しやすい脳の脆弱性がある患者は、そこになんらかの誘因(心理社会的要因や環境要因)が加わり、妄想が出現するのかもしれない。本研究ではサンプルサイズも小さく、そのような誘因を明らかにできなかった。今後の検討課題である。

(仲秋秀太郎、2016.7.27.)

解説 妄想研究への新風

妄想といえば精神病症状の代表だが、では妄想とは何かと正面から問われると、回答は容易でない。妄想の端的な定義は「訂正不能の誤った確信」であるが、これに従えば、統合失調症の荒唐無稽な妄想も、妄想性障害のある程度了解できる妄想も、健常者に時おり見られる強い思い込みも、そしてアルツハイマー病のいわゆるもの盗られ妄想も、すべて妄想という言葉に包括されることになる。それはどう見ても不合理であろう。

そこで精神医学は古来から、妄想とは何かという問いについて様々な議論を重ねて来た。おそらく最もよく知られているのはカール・ヤスパースが挙げた、「並々ならぬ主観的確信」「訂正不能性」「内容がありえないこと」という三つの特徴であろう。このうち、「並々ならぬ主観的確信」は、輪郭が曖昧な印象を受けるが、これこそが妄想という症状の本質であるとする立場もある。それは換言すれば「主観と客観の混同」とも言うべき症状であり、妄想だけでなく、精神病性の症状(統合失調症や妄想性障害の症状)に共通する根本的な特徴であると見ることもできる。この線にそった妄想の定義としてシュピッツァーは「形式的には自己の心的状態に対する陳述のごとく話されるが、内容的には間主観的(客観的)に接近可能な事実についての陳述」を提唱している。ややわかりにくい定義であるが、言わんとするところは、「客観的な現象について、主観的な現象と同じ確信を持って述べる」ということである。

というふうに妄想という精神症状についての議論を始めると終わり無く延々と続くことになりがちである。それはそれで有意義な営みであるが、記述的な方法論のみに依拠する追究には限界があることもまた否めない。

この状況の打破が期待できるのが、本研究で仲秋特任准教授が採った方法論である。いわゆるもの盗られ妄想が外界の誤認に基づく症状であることは症候論からも推定されていたが、そこに本研究により、脳基盤という観点からのデータが新たに加えられたことになる。この結果は、アルツハイマー病についての理解を深めるという大きな意義があることはもちろん、精神医学で最重要とも言える症状である妄想についての伝統的な議論に新たな風を吹き込み活性化する可能性を包含する刺激的なものである。

(村松太郎、2016.7.29.)

前頭辺縁系神経回路における女性優位な世代間伝達パターン
山縣 文 (慶應義塾大学医学部精神神経科 助教)Yamagata B, Murayama K, Black JM, Hancock R, Mimura M, Yang TT, Reiss AL,
Hoeft F. Female-Specific Intergenerational Transmission Patterns of the Human
Corticolimbic Circuitry. J Neurosci. 2016;36(4):1254-60.

親は子供の認知、行動そして脳の発達に対し大きな影響を有しており、これを世代間伝達(Intergenerational transmission)と呼ぶ(Curley, 2011)。これは遺伝的要因や出生前の胎内での影響、さらに出生後の環境要因が相互的に関与していると考えられている。そのような親子における効果は統合失調症やうつ病といった精神疾患でもしばしば認められる。例えば、うつ病の親を持つ子供は健康な親を持つ子供に比べ2〜3倍うつ病を発症するリスクが高い(Lieb, 2002)。特に母親がうつ病の場合、息子ではなく娘の方がうつ病を発症するリスクが高い(Goodman, 1999; 2007)。つまり、うつ病には女性優位の世代間伝達があることが示唆されている。

一方、過去の脳画像研究より、情動制御に関与する脳神経基盤として扁桃体、海馬、前部帯状回、背外側前頭前野、腹内側前頭前野を含む皮質辺縁系神経回路の機能および構造異常がうつ病において一貫して指摘されている(Price, 2010)。過去の動物研究より、うつ病発症に関与する神経回路において女性優位な世代間伝達がある可能性が示唆されている(Weinstock, 1992; Zhu, 2004)。しかしながら、現在まで人間の脳におけるこの世代間伝達における性差について調べた研究はない。

そこで、我々は、健康な35組の生物学的な親子を対象に構造magnetic resonance imaging (MRI)を用いて皮質辺縁系における各親子ペアの灰白質体積の相関の程度の違いを調査した。Voxel-based correlation analysisを行なった結果、皮質辺縁系神経回路を構成する扁桃体、海馬、眼窩前頭前野、直回、前部帯状回において、母と娘の灰白質の体積が、他の3つの親子ペア(母と息子、父と娘、父と息子)と比較して、有意に高い正の相関を示した(P < 0.05, FWE-corrected)。

本研究より、母親がうつ病発症に関与する皮質辺縁系神経回路において脳構造異常を有している場合、息子ではなく、その娘が類似の脳構造異常を有している可能性が示され、うつ病における女性優位な世代間伝達に関与する生物学証拠が示唆された。

本研究の先には、精神疾患の発症リスクにおける性差の解明がある。うつ病は女性が男性より2〜3倍発症リスクが高い。統合失調症では、男性は若年発症で女性は30代前後の発症が多く、発症年齢に性差がある。さらに広汎性発達障害では男性の発症率が高い。このような精神疾患における性差の生物学的基盤を探求することは、病態解明への大きな前進に繋がると考える。

(山縣文、2016.6.1.)

解説 親と子、男と女

子は親に似る。これは事実である。ではなぜ似るのか。これは複雑である。遺伝か、それとも環境か。遺伝だとしたら、どの遺伝子か。環境だとしたら、どの環境か。胎内か。育て方か。おそらくはそれら膨大な因子が様々な率で寄与しているのであろう。顔や体型は遺伝の寄与率が大きそうである。職業選択は環境の寄与率が大きそうである。では性格はどうか。精神疾患はどうか。結局のところ、確実なのは「子は親に似る」という事実だけであって、すると親から子の世代に「何か」が伝達されているとまでしか言えない。これが世代間伝達という言葉の意味である。

親がうつ病だと子はうつ病になりやすい。これは事実である。だがなぜなりやすいのか。これは複雑である。この問いに挑むため古来から精神医学が採ってきた方法論は、双生児研究・養子研究であるが、その結果から言えるのは遺伝の要因と環境の要因のどちらが大きいかということまでであるし、研究デザインの性質上、独立した再検証はほぼ不可能だから、信頼性にもかなりの限界がある。結局のところ、精神疾患の世代間伝達のメカニズムについては、「遺伝も、環境も」という至極当然のことしか言えないというのがこれまでの状況であった。

この閉塞した状況を大きく揺さぶり、新たな道を開いたのが山縣博士の本研究である。山縣博士がまず注目したのは、特に母がうつ病だと娘がうつ病になりやすいという臨床的事実であった。父と母。息子と娘。誰が誰に似るか、その組合せは2x2の4通りある。山縣博士はこの4通りについて、脳の構造を精密に計測した。そして従来よりうつ病に密接に関連していることが示唆されている部位において、母と娘に有意な相関を見出した。母がうつ病だと娘がうつ病になりやすいという臨床的観察には、脳内にその基盤があることが示されたのである。

うつ病は女に多いといっても、うつ病発症率の男女差はそれほど顕著ではない。しかし精神疾患では、発症率にはっきりした男女差があるものがいくつもある。女に多いものは、摂食障害。境界性パーソナリティ障害。色情パラノイア。解離性同一性障害。クレプトマニア。男に多いものは、広汎性発達障害。反社会生パーソナリティ障害。アルコール依存症。フェティシズム障害。窃視障害。露出障害。これらの男女差を生んでいるものは何か。「脳」と答えればそれは普遍的な正解だが、真の問いは、その脳の違いを生んでいるものは何かということである。それは遺伝か環境か。両方であろう。では寄与の程度はどうか。そして遺伝子の中のどれが、環境の中のどれが、この違いを生んでいるのか。さらには脳の男女差を形成するまでの進化も考察しなければならない。そこには何万年という単位の生物的進化も、十年百年単位の社会文化的進化も含まれる。単なる脳の男女差だけでなく、世代間伝達という局面まで踏み込んだ山縣博士の本研究は、うつ病についての画期的な生物学的データであることにとどまらず、男と女の違いという人間にとって普遍的な関心領域に新たな光を当てたものでもある。

なお、この論文は国際社会からも注目を浴びており、2016年1月にはScientific AmericanにLike Mother, Like Daughter --- the Science Says No, Too.という見出しの下に紹介されている。
http://www.scientificamerican.com/article/like-mother-like-daughter-the-science-says-so-too/

さらに2016年2月にはReutersがMothers may pass daughters a brain wired for depressionとして配信している。
http://www.reuters.com/article/us-health-neuroscience-mothers-depressio-idUSKCN0VR2WN

(村松太郎、2016.6.29.)

妄想の医学と法学  中外医学社 2016年6月出版
著 村松太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科准教授)

解説 医と法は刑事裁判で出会い、脳に向かう

妄想を語るためには、事実を語らなければならない。
本書『妄想の医学と法学』で扱っているのは刑事裁判の判例である。そこには妥協は存在しない。どこまでも事実を語るのが裁判である。詳細な症例報告の開示が諸理由で難しくなっている現代において、判例は妄想を語るための最高の材料となっている。

犯行が妄想に基づくものであれば、刑は減軽される可能性がある。だから弁護人は、被告人の思考は妄想であると主張する。対して検察官は、妄想ではなく、単なる思い込みであると主張する。どちらが正しいかが精神医学に問われる。この時、精神医学の曖昧さが露呈する。精神医学では最重要とも言える症状であるにもかかわらず、「妄想とは何か」という問いに、精神医学は明確な答を呈示できないのである。

妄想とは何かという問いは、病気とは何かという問いに昇華する。
この時、医学の曖昧さが露呈する。
医の起源は、患者を苦悩から救うことである。そこで、苦悩を病気と名づけ、診断と治療を体系化し、医学が成立した。「すべては患者=本人=当事者のため」というヒポクラテスの誓いは、紀元前から現代まで、臨床医学の根本原理であり続けている。

だが刑事裁判には、反対当事者というものが存在する。当事者=患者=被告人を苦悩から救うことは、反対当事者=被害者の苦悩を深刻にするという事態が発生する。ここではヒポクラテスの誓いは、公正中立な判定を損なうヒポクラテスバイアスと化す。

バイアスから離れたとき、臨床とは全く別の風景が眼前に開ける。
脳機能が標準から逸脱していることを病気と定義するならば、殺人者はみな病気であろう。裁判所はそうは考えない。病気とみなして治療を命ずるのではなく、罪とみなして罰を命ずる。殺人者の心性を病気ではなく性格と認定するからである。しかし脳機能の標準からの逸脱という意味では、病気と性格を峻別する根拠は存在しない。では病気と性格はどこが違うのか。神経心理学に限らず、脳の研究は必ずこの問題にたどり着く。脳の病気を治療することは、性格・人格を改変することとどこが違うのか。

裁判は治療場面でこそないものの、病気と性格をめぐる問題は、他のどんな場面よりも生々しく顕現する。その場で答を出さなければならないからである。その答は、無罪から死刑まで最大限の振れ幅を持っている。妄想が論点となる刑事裁判では、特にこの問題が露わになる。『妄想の医学と法学』で取り上げたどの判例にも、この問題が底に流れている。そして最後の14ページでは、現代の医学と法学の到達点の明示を試みた。

妄想の医学と法学は刑事裁判の法廷で出会い、手に手を取って脳に向かう。いや、「手に手を取って」は著者の願望にすぎない。脳に向かう医と法の歩みは、両者を結びつけるのか、それとも接近を絶対的に阻む深い絶壁があることを示すことに終わるのか。それはこれからの刑事裁判の中に見えてくるであろう。『妄想の医学と法学』は、その道標となることを目指した書である。

(村松太郎、2016.5.31.)

共感 岩波書店 2014年9月出版
編集 梅田聡 (慶應義塾大学文学部教授)著 梅田聡 (慶應義塾大学文学部)
  板倉昭二 (京都大学大学院文学研究科)
  平田聡 (京都大学野生動物研究センター)
  遠藤由美 (関西大学社会学部)
  千住淳 (Birkbeck, University of London, Centre for Brain and Cognitive Development)
  加藤元一郎 (慶應義塾大学医学部)
  中村真 (宇都宮大学国際学部)

解説 共感を拡大する

現代社会でクローズアップされている、いじめ、DVなどの心の問題の根底には、共感不足というキーワードを見出すことができる。梅田聡教授が編集した本書『共感』は、岩波講座 コミュニケーションの認知科学の2巻としての配本で、現代社会の心の問題を科学的に読み解ける可能性を秘めた刺激的な書である。共感の科学 <認知神経科学からのアプローチ> / 共感の発達 <いかにして育まれるか> / 共感の進化 / 社会的文脈から共感を考える / 共感の自閉スペトクラム症 / 共感の病理 / 共感と向社会的行動 <集団間紛争の問題を通して考える> の各章から成り、当研究室の梅田聡教授が 第1章 共感の科学を、加藤元一郎教授が 第6章 共感の病理を、それぞれ執筆している。

第1章、梅田教授の「共感の科学」は、編者による冒頭の章にふさわしく、共感についての研究の動向の洗練されたまとめとなっている。さらには単なるまとめを超え、身体反応との関係という最新の視点が提示されている。最近の心理学は共感を認知的共感(cognitive empathy)と情動的共感(emotional empathy)に二分する。前者はいわば「クールな共感」で、「他者の心の状態を頭の中で推論し、理解する」ものである。後者はそこに身体反応を伴う、いわば「ホットな共感」である。前者は意図的にスイッチをオフにすることができるが(つまり、共感を抑制することができるが)、後者はそれができない。このように、共感を身体の反応という視点から捉えることは、神経科学の分野でよく知られているSomatic Marker 仮説と、Mirror Neuron仮説を繋ぎ、かつ、現代社会に広がる心の問題に迫るものである。
梅田教授は共感における身体反応性に特に深い関心を持ち、本書のほかに、
「心理学評論」 57巻1号 特集号 『感情と身体』
を編集し、同誌に
感情と身体の統合的理解に向けて
という簡明な論文を掲載している。
共感の身体反応性については、梅田教授によるさらに深く詳しい著書が期待されるところである。

第6章、加藤元一郎教授の「共感の病理」は、認知的共感の低下 / 保持・亢進と、情動的共感の低下 / 保持・亢進の 2 x 2 の表の各セルに、統合失調症・自閉症・境界性人格障害・素行障害・反社会性人格障害・ウィリアムズ症候群を整理し、さらには共感のダークサイドとも言うべきシャーデンフロイデ(本サイト 2015.3参照)にも言及されている。本章を読むと、精神科における実に多くの病態が、共感の病理という視点から捉えられることに気づかされる。そして直ちにいくつもの問いが生まれる。脳機能との関係はどうか。治療への発展性はどうか。加藤教授が特に関心を持っておられた認知進化からはどのように説明できるか。これらについては、加藤教授によるさらに深く詳しい著書が期待されるところである。それは知的興奮に溢れた名著になったことであろう。

(村松太郎、2016.4.27.)

治療に対する同意能力問題について
江口洋子(慶應義塾大学医学部精神神経科研究員・心理士)医療従事者のための同意能力評価の進め方・考え方 新興医学出版社 2015年9月出版
監修 三村將 (慶應義塾大学医学部精神神経科 教授)
監訳 成本迅 (京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学 准教授)
訳 富永敏行 (京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学)
  仲秋秀太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科 特任准教授)
  松岡照之 (京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学)
  加藤佑佳 (京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学)
  飯干紀代子 (志學館大学人間関係学部)
  江口洋子 (慶應義塾大学医学部精神神経科)
  小海宏之 (花園大学社会福祉学部)
  成本迅 (京都府立医科大学大学院医学研究科精神機能病態学)

平成24年10月から27年9月にかけて科学技術振興機構/社会技術研究開発センター(RISTEX)で行われた「コミュニティで創る新しい高齢社会のデザイン」研究開発領域の「認知症高齢者の医療選択をサポートするシステムの開発」プロジェクトの参画メンバーにより本書を翻訳しました。

認知機能が低下すると治療方針に対する意思決定が困難なことがあります。日本では、独居で身寄りのない高齢者や認知症高齢者が増加し、精神科以外の診療科でも認知機能が低下した患者に遭遇することが稀なことではなくなりました。プロジェクトでは、本人の意思が反映された形で、認知症の人が適切な医療を受けられるようにするため、本人と家族・医療従事者(非専門医)・在宅支援者が参考にできる医療に関する意思決定支援ガイドを作成しました。
本書は、プロジェクトを進めるうえで、大いに参考になった資料の一つです。
ここでは、私が翻訳を担当した「6章 解釈」について、一部紹介いたします。
6章では、さまざまなツールで医療同意能力を評価した後、どのように解釈すべきかについて詳細に述べられています。

医療同意能力を正確に評価したとしても、ある治療に対する医療同意能力の有無を判定することは難しいとしています。それは、治療方法により予期されるリスクやベネフィットが異なり、自分の状況に照らし合わせて、いくつかの治療方法を比較しなければならないという状況の複雑さが存在するためです。治療方法ごとに医療同意能力がどの程度必要かという基準を決めておけば、その治療に対する本人の能力の有無を判定することが可能になりますが、実際の治療方法に対するリスクとベネフィットを比較衡量するための明確な方法は今のところありません。
著者はリスクとベネフィットのバランスを4つのカテゴリー(高リスク-低ベネフィット、中-中、低-高、低-低)に分類し、”Competence balance scale” (法的な判断能力の天秤)という概念を用いて理解しようとするGrisso T.とAppelbaum P.S.の試みについても紹介しています。本人の自律と保護を天秤にかけ、通常は自律の尊重のために天秤は自律に傾くように支点が位置していますが、カテゴリーを参照して支点の位置を考慮することにより、自律と保護のどちらが優先されるかを判断します。たとえば、複数の治療方法を比較して、自分にとって明らかに不利益な方法を選択した場合には、保護に傾くように支点を移動させた上で、本人の能力の有無を判定します。このように治療のリスクとベネフィットのバランスを参照して、天秤の傾きを考えれば、ある治療に対する医療同意能力の判定が可能になるということです。

本章では、その他に能力の判定が困難な例をいくつか挙げて解説しています。たとえば、簡易の認知機能検査の結果が良好な高齢者が、リスクは低くベネフィットが高い治療を拒否した例です。この高齢者は認知機能が保たれているために、治療拒否は本人の意思としてみなされる可能性がありました。しかし、難しい認知機能検査をして認知機能が低下していたという結果から、せん妄の影響を明らかし、治療拒否は医療同意能力が低下しているためであるためとされました。このように、医療同意能力について判定するには、本人の正しい病状や状況を把握することが重要とされています。
本章では、最後に能力判定に際の記録について、推奨している記載事項についても述べています。

このように、ある治療に対する医療同意能力の有無をどのように判定するのか、医療関係者や家族が最良と考える治療を本人が拒否した場合はどのように考えるかなど、臨床現場で医療従事者が判断に迷うときに、本章は役に立つことと思われます。

(江口洋子、2016.3.30.)

解説 大前提の崩れに対応する

人間社会は、一人一人が自由意思を持ち、自分についての重要事項について正しく決定できることを前提として成り立っている。だが本人が精神疾患や認知症に罹患しているとき、この大前提が崩れることがある。このとき、従来の医療倫理が単純には通用しない局面が立ち現れる。どこまでも本人の意思を尊重するというのは理想であるが、本人が自己にとって最良の医療を選択できない事態に直面したとき、それは理想であっても現実的でない。医療従事者には慎重なうえにも慎重な姿勢が求められる。しかしながら、いかなる医療行為もリスクとベネフィットのバランスの上に成り立つものであり、何が最善であるかを一義的に決定することが不可能である以上、慎重であるだけでは不十分で、何らかの基準か、あるいは基準には至らずとも、基本となる考え方が共有されていることが必要である。現代において大きくクローズアップされてきているこの問題に対し、『医療従事者のための同意能力評価の進め方・考え方』は臨床場面での有益な指針を示す書である。

原書は、
Scott Y.H. Kim:
“Evaluation of Capacity to Consent to Treatment and Research”
(Best practices in forensic mental health assessment series)
Oxford University Press 2009
で、当研究室からは仲秋特任准教授、江口研究員が翻訳を分担し、三村教授が監修している。

本書の前半である基礎編は、Appelbaum P.S. とGrisso T. が提唱した4つの能力モデル、すなわち「理解する力 understanding」「認識する力 appreciation」「論理的に考える力 reasoning」「選択を表明する力 expressing a choice」 を中心に展開し、同意能力 capacity to consent の概念の正確な把握に向けて構成されている。
そして後半の応用編は「評価の準備段階」「データ収集: 患者への面接」「解釈」「アセスメント後」と、臨床現場での時間的流れにあわせた実践的な記載の章が続き、最終章として「研究参加への同意能力」が設けられている。これは本書の原題、”Evaluation of Capacity to Consent to Treatment and Research”に対応している。

本書は新興医学出版社のホームページ
http://shinkoh-igaku.jp/mokuroku/data/859.html
にも紹介されている。

(村松太郎、2016.3.31.)

統合失調症患者の自己主体感における予測シグナルの遅れの行動学的エビデンス
是木明宏(慶應義塾大学医学部大学院博士課程)Koreki A, Maeda T, Fukushima H, Umeda S, Takahata K, Okimura T, Funayama M, Iwashita S, Mimura M, Kato M. Behavioral evidence of delayed prediction signals during agency attribution in patients with schizophrenia. Psychiatry Res. 2015. Nov 30;230(1):78-83.

この論文は2013年夏にASSC (Association for the Scientific Study of Consciousness)の学会でポスター発表した内容に、より詳細な考察を加えて形にしたものである。

統合失調症の病態は未解明だが、その中核症状は自我障害といわれている。この自我障害を認知神経科学の知見からどのように説明するかが近年活発に議論されており、特に自己意識(Self-consciousness)の研究に注目が集まっている。

自己意識には2つの側面がある。一つは自己所属感(Sense of Ownership)であり、この手は「私の」ものだといったような感覚を指す。もう一つが自己主体感(Sense of Agency:SoA)であり、例えば何か物が動いたときに、「私が」動かしているといったような、私がという感覚を指す。このSoAは統合失調症の症状にも非常に関連しており、例えば自分の行為が誰かに操られてしまうといった感覚はSoAが低下している状態であるといえる。逆に自分の行為が周囲へ過剰に影響を及ぼしてしまうという症状はSoAが過剰になっている症状といえる。実際に様々な神経心理学的な研究で統合失調症におけるSoAの異常が示されてきている。

SoAの成立機序はForward modelで説明される。人が何か行為をするとき、その行為の結果を予測する。この予測と実際の行為の結果とが一致していれば、「自分が」その結果を起こしたと感じることができる。これがSoAが生じる場合である。例えば、電気をつけようとしたとき、電気がつくと予測してスイッチを押し、思い通りに電気がつけば「自分が」電気をつけたと感じる。一方で予測に反してなかなか電気がつかず1分後に電気がついた場合、他人がどこかでスイッチを押して電気をつけたのだろうと感じるだろう。

このように「予測」はSoAの成立に非常に重要だが、この脳基盤は前頭葉から感覚連合野へと白質を通して伝わるシグナルだと考えられている(Efference copyやCorollary dischargeといわれる)。

統合失調症では予測シグナルの異常があることが示されており、またその神経基盤となりうる白質の異常も示されてきている。しかしこれら先行研究はSoA研究から得られたものではない。そのためSoAと予測シグナルの異常との関係を論じるにあたり、SoAパラダイムの中で予測シグナルの異常を示す必要性があった。

今回、健常者および統合失調症患者各30名に対してSoA task(Keio Method)を改変して行ったところ、統合失調症の予測シグナルの遅れを示す結果が得られた。さらにはその予測シグナルの遅れが過剰なSoAへと繋がる結果が示された。

この統合失調症における予測シグナルの遅れは、白質の異常との関係が想定され、Disconnection 仮説を支持するものと考えられる。統合失調症患者はこの遅れによって日常生活における様々な状況でSoAの異常を来たす可能性がある。予測シグナルが遅れている分、健常者とは違う状況でSoAを感じ、逆に通常ではSoAを感じる状況で患者はSoAを感じない。これは自我障害だけでなく幻聴や妄想など統合失調症の様々な症状にも繋がる可能性もある。さらにこの知見は予測シグナルの遅れを修正するようなリハビリテーションなど様々な治療技術の開発にも今後繋がると考えている。

(是木明宏、2016.2.22)

解説 自我障害を脳科学で語る

統合失調症の自我障害を科学の射程に引き寄せることを目指して前田貴記講師が開発したSoA task (本サイト2014.3.参照)を活用した一連の研究のひとつがKoreki et al: Behavioral evidence of delayed prediction signals during agency attribution in patients with schizophrenia. である。是木院生の解説文にある「改変」とは、trial-by-trial、すなわち、各試行ごとにSoA課題のdelay(遅れ)を延長していくことを指している。この改変を施した方法論により、統合失調症における自己主体感の遅れが客観的なデータとして可視化されたことが本論文の骨子である。

本研究で設定したdelayは50msecである。この50msecという数字は、統合失調症におけるcorollary discharge の測定値に由来する。本論文のタイトルにあるBehavioral evidence (行動学的エビデンス)は何気ない常套句に見えるが、実のところは統合失調症の自我障害を説明し得る唯一ともいえる神経生理学的な事象のcorollary dischargeをbehaviorのレベルに結びつけたという、世界初の行動学的エビデンスなのである。

Corollary dischargeの異常がさらに前頭葉白質の髄鞘化の異常と密接に関連することが示唆されていることとあわせ、本論文のデータの先には、統合失調症という脳の病気の巨大な姿が映し出されている。その姿はいまだ霧の中の巨人のように輪郭不明瞭だが、臨床症状から脳の解剖生理学までの連結部分を覆っていた霧を、巧妙な心理実験という一陣の風で吹き飛ばしたのが本研究である。

実験医学の領域ではしばしば from bench to bedside という表現が目にされる。基礎的な実験データを臨床所見に繋ぐことを意味する表現である。これまで記述のレベルでしか語られてこなかった統合失調症の自我障害を脳科学の言葉で語った本研究は、まさに精神医学におけるfrom bench to bedsideを具現したものと言えよう。

(村松太郎、2016.2.23.)

体位性頻脈症候群における脳構造の特殊性 <自律神経障害と精神症状の関連性を探る>
梅田 聡 (慶應義塾大学文学部教授)Umeda, S., Harrison, N. A., Gray, M. A., Mathias, C. J., & Critchley, H. D. (2015) Structural brain abnormalities in postural tachycardia syndrome: A VBM-DARTEL study. Frontiers in Neuroscience 9, 34.

William Jamesが情動における身体の重要性を訴えてから,120年以上の歳月が経つ.この間,抑うつや不安をはじめ,さまざまな情動や気分に関する神経生物学的・神経心理学的な研究が発展し,それらの背後にある脳内メカニズムに関する理解が深められた.特に近年になって見えてきたことの一つは,抑うつや不安などの精神症状の背景には,身体機能の特殊性,特に自律神経機能の異常が強く関与しているという事実である.

本論文は,自律神経障害の一種である「体位性頻脈症候群(postural tachycardia syndrome (PoTS))を対象としたMRIの構造画像研究である.PoTSは,起立時の著しい心拍上昇によって特徴づけられる自律神経病態であり,自律神経亢進型の障害と位置づけられる.原因に関してもさまざまな説が提案されているが,心臓自体の容積が小さいことが重要な要因であると考えられている.関連する事象として,多くの宇宙飛行士は,地球へ帰還後にPoTS症状を呈することが知られている.宇宙空間では,重力がないために,心臓が収縮してしまうことが背景にある.

MRI構造画像解析(VBM-DARTEL)の結果,健常群と比べPoTSにおいて,帯状回前部(anterior cingulate cortex)および島皮質(insular cortex)の容積が減少していることが明らかになった.この2つの部位は,近年,セイリエンスネットワークとして知られ,内臓や筋の状態,痛みや体温,体液循環,前庭感覚など,身体のホメオスタシスからの逸脱程度のモニター(内受容感覚),およびそれに対する身体調整機能の駆動に関わるとされる部位である.本研究の結果は,PoTSにおいて,身体のモニターおよび制御機能が低下していることを示唆するものと考えられる.

さらに,精神症状との関連を調べるため,抑うつおよび不安傾向との相関を調べたところ,島皮質の容積が小さいほど,抑うつ傾向および不安傾向が高いことが明らかになった.これらの成果は,抑うつや不安などの症状の生起に,身体機能の異常が深く関与することを示唆している.精神症状の生起メカニズムを探る上で,脳と身体との相互作用という視点から統合的に解析することが肝要であると考えられる.

(梅田聡、2016.1.20.)

解説 はたして人は、泣くから悲しいのか

「悲しいから泣くのではない。泣くから悲しいのだ」
19世紀の心理学者ウィリアム・ジェイムズのものとされるこの言葉は、人間において、生理学的反応(たとえば、「泣く」)が、心理学的情動体験(たとえば、「悲しい」)の原因であることを意味している。

人々の自然な常識的直感に反したこの言説は正しいのか。もし正しいとしたら、そこには如何なるメカニズムがあるのか。この心理学百年来の問いをめぐる議論を大きく前進させたのが、梅田教授がかつての留学先のロンドン大学認知神経科学研究所 / ロンドン大学 神経学・脳神経外科学病院 自律神経ユニット Institute of Cognitive Neuroscience, University College London / Autonomic Unit, National Hospital for Neurology and Neurosurgery University College London で行った本研究である。対象は自律神経症状と精神症状(不安等)を呈する疾患のPoTS (postural tachycardia syndrome; 体位性頻脈症候群)。主たる結果は、いわゆるセイリエンスネットワークSalience Networkを構成する帯状回前部と島皮質の容積減少である。

セイリアンスネットワークとは、その名の通り、Salient eventに対する生体の、いわばあらゆる反応に関与することが明らかになりつつある脳構造である。そして、統合失調症、気分障害、さらにはいわゆる神経症性障害にわたる多くの、おそらくはすべての、精神疾患でこのネットワークに何らかの異常があるという知見が蓄積されつつある。心の病と呼ばれてきた精神疾患にこのような所見が見出されたことを、伝統的な心と脳の二分法への強力かつ具体的な反証であるとする立場もある。より身体的色彩の強い疾患であるPoTSでもセイリアンスネットワークに所見があることを示した本研究は、心、脳、身体の関係の、さらにはそれらの境界の、見直しを迫るものであると言える。

そして本研究における特記すべき点は、「悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか」という問いとの深い関連性である。

この問いをPoTSに変換すれば、「不安だから頻脈になるのか、頻脈だから不安になるのか」となる。

精密に臨床観察を行えば、「不安」と「頻脈」の時間的前後関係までは明らかにすることができるかもしれない。「悲しい」と「泣く」についても同様である。しかし因果関係までは証明できない。そのためには脳内メカニズムの解明が必須である。PoTSの脳構造の特殊性を示した本研究は、この解明への歩を着実に進めるものである。同時に、より合理的で有効な治療法の開発にも繋がるであろう。精密な臨床観察と画像解析を駆使した梅田教授の本論文には、それを予感させる鳴動がある。

(村松太郎、2016.1.25.)

第39回 日本高次脳機能障害学会学術総会2015年12月10日、11日 ベルサール渋谷ファースト
テーマ 前頭葉
会長 故 加藤 元一郎
会長代行 三村 將
事務局長 船山 道隆

いかにも加藤元一郎教授らしい「前頭葉」という直球をテーマにした学会が、上記の通り開催され、本学会史上最多の約2400名にご参加いただいた。予想をはるかに超える人数であったため会場が手狭となり、参加者の皆様にご不便をおかけしたことをお詫び申し上げます。2日間にわたる熱心な討論は、前頭葉と高次脳機能障害学への関心の益々の高まりを実感させるものであった。
当研究室関連の演題は次の通り(研究室員が筆頭演者であったもののみを示す)。

1日目(2015年12月10日)

◇シンポジウム1: 発達障害と神経心理学
発達障害における顔認知
小西 海香
自閉スペクトラム症の嗅覚特性
熊崎 博一

◇教育講演 3
てんかん性健忘
田渕 肇

◇ワークショップ 1:情動 司会:梅田 聡
W1-1
情動を生み出す「脳・心・身体」のダイナミクス:脳画像研究と神経心理学研究からの統合的理解
梅田 聡

◇一般演題
・意味記憶障害が遷延した全生活史健忘の一例
是木 明宏 他

・注意障害の経過―トレールメイキングテストによる検討
稲村 稔 他

・計算論的精神医学によるワーキングメモリ障害と前頭前野の NMDA 受容体、D1 受容体機能の対応
沖村 宰 他

・病的収集活動の出現に明らかな契機がみられた右前頭葉損傷例
高田 武人 他

2日目(2015年12月11日)

◇シンポジウム 3:前頭側頭葉変性症と紛らわしい病態
司会:三村 將、池田 学
・前頭側頭葉変性症と類似する精神疾患
三村 將

◇ワークショップ2:sense of agencyパラダイムによる新たなリハビリテーション戦略―運動麻痺から高次脳機能障害まで
司会:前田 貴記
・自己意識の神経心理学の試み
前田 貴記

◇会長講演:前頭葉の臨床神経心理学
司会:鹿島 晴雄
前頭葉の臨床神経心理学
三村 將

◇教育講演 6
司法神経心理学
村松 太郎

◇一般演題
・右半球の広範な脳梗塞後にソマトパラフレニアとして体内に動物が出現したと考えられた一例
秋田 怜香 他

・抗てんかん薬で一部の健忘が改善したてんかん性健忘の一例
堀田 章悟 他

・顕著な視覚構成障害と漢字失書を呈した若年性アルツハイマー病疑いの 1 例
山縣 文 他

・顕著な漢字失書を呈したアルツハイマー病疑いの 1 例
堀込 俊郎 他

・物忘れ外来受診者に対するテレビ会議システムを用いた神経心理検査の実用性に関する検討
江口 洋子 他

・記憶障害を呈する脳損傷者が認定健康増進施設利用する意義(第 2 報)
先崎 章 他

なお、学術総会前日の2015年12月9日には、六本木の東京ミッドタウンホール&カンファレンスにおいて、各種委員会・役員会が行われ、2004年以来本学会理事長を務められた鹿島晴雄教授が退任され、新たな理事長として三村將教授が選ばれた。
そしてクリスマスのイルミネーションを見下ろす会場で、役員懇親会および加藤元一郎先生を偲ぶ会が行われた。

(村松太郎、2015.12.24.)

側頭-頭頂皮質の萎縮による進行性の超皮質性感覚失語および進行性の観念失行
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科 部長)Progressive transcortical sensory aphasia and progressive ideational apraxia owing to temporoparietal cortical atrophy
Michitaka Funayama and Asuka Nakajima
BMC Neurology (2015) 15:231 DOI 10.1186/s12883-015-0490-2

【背景】
前頭側頭葉変性症は、臨床的に以下の3つの下位分類がある、すなわち、行動障害型前頭側頭型認知症, 非流暢性/失文法型進行性失語, 意味型進行性失語である。一方で、後部脳の皮質に萎縮を認める変性疾患の臨床症状はまだ十分に解明されていない。現在までに、左シルビウス裂周囲の側頭-頭頂葉に萎縮/機能低下を認め、流暢であるが復唱の障害が目立つ失語を呈するlogopenic型進行性失語、両側の後頭-頭頂葉を中心とした萎縮/機能低下を認め、視空間障害を主症状とする後部皮質萎縮症、頭頂葉の萎縮/機能低下を認め、進行性の肢節運動失行を主症状とする原発性進行性失行が挙げられている。しかし、臨床症状がこの3群にうまく入らない患者群は以前から臨床現場では指摘されてきた。

【Logopenic型進行性失語と後部皮質萎縮症の中間】
本研究は、前2者、すなわち、logopenic型進行性失語と後部皮質萎縮症の中間に属し、発症が65歳以下の2症例の詳細な臨床症状を挙げ、logopenic 型進行性失語と後部皮質萎縮症がスペクトラムである可能性を示した。われわれの症例の病理所見を示すことはできなかったが、神経病理研究からはlogopenic型進行性失語と後部皮質萎縮症はアルツハイマー病の症例が多いと報告されている。すなわち、後部脳の皮質に萎縮を認めるアルツハイマー病は、logopenic型進行性失語と後部皮質萎縮症をプロトタイプとして、その両者の臨床像を持つ症例が少なくない可能性が示唆された。

【進行性の観念失行および概念失行】
また、今回のわれわれの症例は進行性の観念失行や概念失行を認めた。われわれは以前にも(Funayama M, Nakagawa Y, Yamaya Y, Yoshino F, Mimura M, Kato M. Progression of logopenic variant primary progressive aphasia to apraxia and semantic memory deficits. BMC Neurol. 2013;13:158. doi:10.1186/1471-2377-13-158.) 、logopenic型進行性失語において比較的発症早期から失行を伴った3症例を報告した。両報告の症例の失行は、原発性進行性失行に典型的に認められる肢節運動失行とは異なり、意味性の錯行為が目立つことなどから行為と意味のアクセスが不十分となる病態を示している。後部脳の皮質に萎縮を認めるアルツハイマー病では、この型の失行が出現することが多い可能性が示唆された。

(船山道隆、2015.11.12.)

解説 分類という道標

たとえば、虹は何色か?
七色。誰もがそう答えるであろう。
だが虹の色の数は、国や文化によって異なる。八色という国もある。六色という国もある。五色や四色もある。どれが正しいのか? どれも正しいといえば正しいし、正しくないといえば正しくない。
人間の目に見える波長は380nmから750nm。この範囲の様々な波長が混じった光が白色光である。白色光をプリズムで分離すると、様々な色が見えてくる。これが虹である。すなわち光とは元々は切れ目のない連続した波長として存在するのであって、それが人間の視覚、さらには色を表す言葉の数によって、有限の色数として認識されているにすぎない。虹の色の数は、知覚と言葉による制約を受けて定められているのである。

では、精神病は何種類か?
混沌の中から、クレペリンは早発性痴呆と躁うつ病を抽出した。この2つのカテゴリーへの分類を道標として、現代精神医学の発達が加速したと言っても過言ではない。
だが虹という自然界の現象と同様に、疾患という生物学的現象も、本来は連続的なものである。もちろん連続体であっても、その中のある群に他のものと一定以上の違いが見出されれば、その群はカテゴリーとして差し支えない。しかし本来が連続体である以上、どのカテゴリーにも分類できないものが必ず出て来る。だからクレペリンは分類体系を次々に改訂した。だが改訂をそう頻繁に行うわけにはいかない。ではどうするか。

第一の方法は、少々の矛盾は無視し、既存の項目の中に強引に分類してしまうということである。虹は七色であると固定し、一切疑わない姿勢がこれにあたる。実際に虹を見たとき、七色を見分けられる人はまずいないが、それでも虹は七色なのだ。
第二の方法は、「分類不能」というカテゴリーを作ることである。NOS (Not Otherwise Specified) だ。DSMはこの方法を採ることで、いかなるケースもどこかに必ず分類可能な形を維持している。
虹は七色式に既存の体系を墨守したり、NOS式にごみ箱を作ってすましていることが、ある時期には必要であり現実的でもあるが、知見が蓄積されてくるといつかは矛盾が臨界点に達し、新たな分類体系に脱皮せざるを得なくなる。脱皮すなわち進歩である。

その蓄積される知見はどのようにして生まれるか。
虹においては、知覚による制約は絶対的なものである。裸眼で見て何色見えるかが虹の色数というものの本質なのであって、機器で分析すれば可視光線は無限に近い色の数に分離できるなどと言っても意味はない。
一方、臨床とは、逆に裸眼では見えないものを追究する営みである。そのための武器の一つは画像診断などの機器の進歩であるが、そこに臨床家としての慧眼が加わって初めて、従来の分類体系を超えた視点が生まれる。

本論文、船山部長の「側頭-頭頂皮質の萎縮による進行性の超皮質性感覚失語および進行性の観念失行」は、そういう仕事である。
後部脳の皮質に萎縮を認める変性疾患は従来、(1) logopenic型進行性失語、(2) 後部皮質萎縮症、(3) 原発性進行性失行の3つに分類されていたが、(1)と(2)がスペクトラムである可能性を示した。本論文を要約すればそうなる。
それは表面的には分類学の進歩への貢献であるが、分類は手段であっても目的ではない。虹の色を追究すれば光という物理現象の本質に接近できるのと同様、臨床像の分類を追究すれば、疾患の本質に接近することができる。その先にあるのは疾患の重要な要素である神経病理や遺伝子である。

そして神経心理学で扱うことの多い脳器質疾患では、分類学においても、高次の神経症状とそれに密接に関連する脳局在部位を論ずることができるという大きな特長がある。本論文では失行が強調されている。これはいわば、船山部長という先駆者が示した道標であり、この道標に着目することで、誰もが精密な診断に向けて歩むことが可能になる。
本論文を精読すると、失行以外にも多くの臨床的道標が示されていることに気づかされる。どこまでも精密な臨床観察から生まれた論文なのである。その結果、本論文自体が、変性疾患の本質と全体像への道標となっている。

(村松太郎、2015.11.29.)

軽症アルツハイマー病の診断補助には,時計描画課題よりも日本語版Rapid Dementia Screening Testが有用である
森山泰 (駒木野病院精神科診療部長)Yasushi Moriyama, Aihide Yoshino, Kaori Yamanaka, Motoichiro Kato, Taro Muramatsu, and Masaru Mimura
Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test is effective for detecting patients with mild Alzheimer’s disease compared to the Clock Drawing Test
Psychogeriatrics. 2015 Jul 24. doi: 10.1111/psyg.12144.

日本語版 Rapid Dementia Screening Test(Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test: RDST-J)はKalbeらによって開発された認知症スクリーニング検査を酒井らが日本語に翻訳したもので,スーパーマーケット課題と数字変換課題の2題からなる.スーパーマーケット課題は1分間の制限時間内に「スーパーマーケットやコンビニエンスストアで買えるもの」をできるだけいってもらう言語流暢性課題である. 一方数字変換課題は,アラビア数字を漢数字に変換する2題(209→二百九,4054→四千五十四)と,漢数字をアラビア数字に変換する2題(六百八十一→681,二千二十七→2027)からなる. 本検査は3~5分で施行及び採点が可能であり,紙と鉛筆以外の用具を必要とせず,被検者からの受入れも良い. 本邦では酒井ら(2006)がその日本語版(Japanese version of the Rapid Dementia Screening Test: RDST-J)を作成している.

今回われわれはRDST-Jが時計描画課題より軽症認知症の評価に有用である臨床的印象をもち,それについて調査した. 対象はアルツハイマー病(Alzheimer’s disease: AD) 250例と健常群49例で,AD群のMMSEは12-26点,clinical dementia rating scale (CDR)は3-0.5である.患者群をCDRの値で4群に分け,健常群を含めた計5群における時計描画課題とRDST-Jの得点分布を統計学的に検討した.

その結果,認知症の重症度に応じてRDST-J,時計描画課題の成績は低下していた.また軽症AD群に注目するとRDST-Jは健常群とCDR 0.5で有意差を有したが,時計描画課題は有意差を有さなかった.そこでRDST-JにおけるCDR 0.5のスクリーニング検査としての妥当性を調べたところ,カットオフ値を7/8に設定した場合感度57.1%,特異度81.0%で,8/9とすると感度79.6%,特異度55.1% であった.

今回の検討からRDST-Jは時計描画課題と比較し,健常群と CDR0.5 の鑑別補助に有用であることが示された.

(森山泰、2015.10.3.)

解説 認知症疑いの最早期発見

日本社会の急速な高齢化に従い、認知症患者数も急増しつつある。折しもつい先日、当教室の佐渡充洋博士を中心とする研究班が、認知症による我が国の社会的費用は年間14.5兆円にのぼるというデータを発表した。このままいくと、2060年にはこの額は24兆円になると推計されるという。「このままいくと」日本社会は危ない。「このままいかない」ためには、認知症対策を加速しなければならない。そのためにはまず、認知症やその疑いの人々を、簡便な方法で発見しなければならない。母集団は膨大で、ターゲットも膨大であるから、特に簡便な方法でなければならない。

認知症のスクリーニング検査として広く用いられているのはMMSEである。だが、「広く用いられている」と言えるほどには、実際の臨床場面ではあまり使われていないというデータもある。MMSEは、多忙な日常臨床で用いるには、まだまだ簡便さにおいて不十分な検査なのである。

より簡便な検査としては時計描画課題がよく知られているが、森山博士の本論文は、その時計描画課題よりさらに簡便な検査で、軽症アルツハイマー病のスクリーニングが可能であることを示唆したデータを呈示している。結論をひとことで言うと、「健常群とCDR 0.5の鑑別に、RDST-Jが有用」ということである。CDR 0.5とは、「認知症疑い」である。我が国に膨大に存在するこの群を、簡便な検査で発見することの意義は非常に大きい。本論文にはさらに、RDST-J得点が認知症の重症度に応じて低下することも示されている。CDR 0.5からCDR 1、すなわち、「認知症疑い」から「軽度認知症」への移行についての研究は次の課題である。さらにその先へ、認知症の研究は限りなく続く。森山博士は、駒木野病院精神科診療部長という第一線で臨床に携わりつつ、研究論文も休むことなく生産し続けている。

(村松太郎、2015.10.26.)

アルツハイマー病患者におけるドネペジルからガランタミンへの切り替えのSPECTによる効果予測
岡瑞紀 (慶應義塾大学医学研究科大学院博士課程)Oka M, Nakaaki S, Negi A, Miyata J, Nakagawa A, Hirono N, Mimura M.
Predicting the neural effect of switching from donepezil to galantamine based on single-photon emission computed tomography findings in patients with Alzheimer’s disease
Psychogeriatrics.
Article first published online: 26 JUN 2015 | DOI: 10.1111/psyg.12132

本邦で初めて1999年にアルツハイマー病に関して承認されたコリンエステラーゼ阻害薬はドネペジルであるが、2011年にはさらに2種類のコリンエステラーゼ阻害薬が認可された。これまで多数の脳画像研究は、アルツハイマー病患者の前頭葉におけるコリンエステラーゼ阻害薬の治療効果に言及してきた。前頭葉が関与すると言われている、アパシーや遂行機能障害はアルツハイマー病患者及びその家族の生活の質を悪化させる。しかしながら、アパシーと遂行機能障害に対するコリンエステラーゼ阻害薬の神経学的効果はまだ明らかになっていない。そこで、SPECTを用いたベースラインにおける局所脳血流量を用いて、ドネペジルからガランタミンへの切り替えに反応するアルツハイマー病患者のアパシーと遂行機能障害への効果予測を検討した。

慶應義塾大学病院精神神経科外来において、ドネペジルによる治療に反応のなかった(12ヶ月以上ドネぺジル5mg/dayを服用していたがMMSEが1年間で 2点以上低下した)アルツハイマー病患者に対し、ガランタミンへの切り替え24週前向きオープン研究をおこなった。ベースラインの時点でSPECTを施行し、ベースラインおよびガランタミン切り替え後の12週と24週の3時点でMMSE(Mini-Mental State Examination)やADAS-J(the Japanese version of the Alzheimer’s Disease Assessment Scale-cognitive subscale)FAB(the Frontal Assessment Battery)、NPI-Q(the Neuropsychiatry Inventory Brief Questionnaire Form)、DEX(the Dysexecutive Questionnaire)を含む行動及び認知機能検査を施行した。

アルツハイマー病患者(78.6±5.6歳 教育歴 12.5±3.0年)の27名(男11:女16)の結果を検討したところ、ガランタミンへ切り替え後にNPI-Qにおけるアパシー、易怒性、異常行動と遂行機能を評価するDEX値が有意に改善した。いくつかの前頭葉領域(背外側及び腹外側前頭前野、前帯状回、眼窩部前頭野)の脳血流がベースラインで低いほど、ドネペジルからガランタミンへの切り替えを行った後に、NPI-Qにおけるアパシー(負担度)とDEX値がより改善することをSPECTの所見は予測した。

ガランタミンには、アセチルコリンエステラーゼ阻害作用に加え、ニコチン性アセチルコリン受容体への刺激作用を併せ持つ効果がある。この研究は、それらの効果がアパシーと遂行機能障害と関連する前頭葉に影響を与えることを示唆している。

(岡瑞紀、2015.9.19.)

解説 認知症の合理的治療戦略を目指して

病気には症状がある。症状には原因がある。原因を取り除ければ症状が消え、病気は治る。これがシンプルな治療論である。だが現実の病気はなかなかこうシンプルにはいかない。

岡瑞紀大学院生が専門としているアルツハイマー病も、シンプルにいかない病気の一つである。

アルツハイマー病の症状は、認知機能低下である。全般的な低下である。だが認知機能とは多種多様な現れ方をする。全般的な低下というのは、認知症の定義としてはそうであるということであって、低下のプロフィールは当然ながら一人ひとり異なる。病気のステージによっても異なる。

アルツハイマー病の原因論の中心となるのは、アミロイドカスケードである。だがそこから認知機能低下までのメカニズムの全容が解明されているわけではない。プロセスのどの段階を治療ターゲットにするのが最善かも不明である。

アルツハイマー病の薬はある。脳内のアセチルコリンの減少を抑える、コリンエステラーゼ阻害薬である。現在我が国にはドネペジル(アリセプト)、ガランタミン(レミニール)、リバスチグミン(イクセロンパッチ)の3種類があるが、どういう症状のときにどの薬が有効かはわかっていない。

このように、アルツハイマー病について現代の医学が持っている知見は断片的である。断片的だが、たくさんの断片がある。そして断片の数はどんどん増加しつつある。断片をピースとして組み合わせていけば、その先には病気の解明と、より効果的な治療があるはずである。

岡大学院生は、症状として、アパシーと遂行機能障害に着目した。原因論にかかわる客観的なデータとして、脳血流を測定した。薬として、ドネペジルとガランタミンを比較した。そして示唆に富む結果が得られた: アパシーと遂行機能障害は前頭葉の血流低下に関係しているかもしれない。それらの症状にはガランタミンの方が有効かもしれない。それはニコチン性アセチルコリン受容体刺激に関係しているかもしれない。

現時点では、どれも「かもしれない」にとどまる。本論文のデータは、壮大なパズルの1ピースにすぎない。1ピースだが、着実に未来に繋がる貴重な1ピースである。この仕事は岡大学院生の学位論文になった。

(村松太郎、2015.9.26.)

低酸素脳症者の実態、生活支援、社会支援についての多施設共同研究
先崎章 (東京福祉大学教授、埼玉県総合リハビリテーションセンター部長)平成23~26年度 研究報告書 全246ページ (科学研究費助成事業No.23530748、非売品、全国の高次脳機能障害者支援拠点機関に配布)

本冊子は、科学研究費を用いて行った「低酸素脳症とリハビリテーション」に関連する臨床研究と勉強の成果である印刷物を、研究代表者として一冊にまとめたものです。6名の分担研究者ならびに研究協力者による、28編の日本語の臨床論文(先崎章は16編を担当)と、それらの「まとめ(概略)」から成り立っています。

神経心理学研究会は臨床教室が会を主催し、臨床医が集っていることが特徴だと思います。今でこそ実験研究的な発表が多くなりましたが、一昔前は、鹿島晴雄先生、そして加藤元一郎先生の下、極めて日常臨床的なテーマ―をめぐって研究会が運営されていた時期がありました。本研究とこの研究報告書はその流れを受け継いでいるものです。
 以下、報告書のまとめ(概略)を転記いたします。

Ⅰ 低酸素脳症者のリハビリテーション

低酸素脳症(anoxic brain injury)とは、心肺疾患などによる心肺停止、呼吸不全、溺水、高度の貧血、一酸化炭素中毒などにより、中枢神経系に一過性に酸素やグルコースの供給が途絶えることによって脳に生じる機能障害を総称したものである。その病態は、①酸素そのものが脳動脈血に供給されない低酸素性低酸素血症(hypoxic encephalopathy)②酸素を運搬するヘモグロビンの減少による貧血性低酸素血症(anemic hypoxia)③脳血流そのものが低下する低酸素性虚血性脳症(hypoxic ischemic encephalopathy)に分類される。
AED(自動対外式除動器)の普及や救命救急医療の発展に伴い、心肺停止後の蘇生率は向上している。そして救命・蘇生されたものの、後遺症が残る場合が多い。その症状は、麻痺や失調などの運動機能障害から、記憶障害を中心とする認知機能障害、発動性低下まで多彩である。回復は他の脳器質疾患と比べて緩慢であり、外傷性脳損傷者とは異なる経過をとる。ただし、リハビリテーション病院で診ている患者は心肺停止例全体の内のほんの一部の例である。
医学的リハビリテーションにおいては、回復期の直接的な機能回復訓練だけではなく、代償的・環境調整的な方法を用いて、患者のできる能力をひきだすことにより生活障害を改善することに重点をおいた、長期的な視点での対応が望まれる。入院から外来、外来から復職への移行期や、医療から介護・福祉、施設から在宅へ移行する等の適切な時期に医学的リハビリテーションの方法を用いて介入することが、社会参加を促進する。自殺企図による溺水、薬物中毒、縊首、練炭などによる一酸化中毒の場合は、発症前の適応状態や家族状況など社会的背景が複雑なことが多い。この場合に社会復帰を支援するためには、心理面の配慮や家族支援に加えて、福祉機関や保健センターなどとの長期的な連携が必要となる。

Ⅱ 低酸素脳症者の生活支援・社会支援

低酸素脳症者では、就労群と非就労群ともに高い抑うつ気分を示していた。気分状態や健康関連QOLは、記憶障害の重症度や、発症からの日数とは必ずしも関連していなかった。一方、記憶障害が重度でも気分が安定している場合もある。すなわち、とりまく環境や介入の方法により、社会活動水準が維持されている場合、「うつ」や「混乱」の尺度が低く、健康度自己評価も「良好」であった。できる能力をひきだし、社会活動水準を維持するような介入を工夫することが重要となる。発症から1年以上経過しても、「できる能力」をひきだすことで、日常生活活動を向上させることができる。社会参加支援のためには、低酸素脳症者においては少なくとも3年間はリハビリテーションが必要である。
身体障害(身体失調、構音障害、嚥下障害)、高次脳機能障害(記憶障害)、精神障害が併存している場合には、在宅生活では多方面にわたるマネジメントが必要となり、主介護者の介護負担が大きい。発動性が低下している場合には、訪問リハビリテーション、通所サービスへの導入が、主介護者の負担感を緩和させうる。ただし社会参加度が向上することで、自宅で家族の役割や責務が大きくなり、主介護者である家族の負担感が大きくなる場合もある。自殺未遂例では、リハビリテーション期間中に明らかな抑うつの再燃はなくとも、復職後に抑うつが再燃しうる。

Ⅲ リハビリテーションの現場におけるICF

外来通院中の低酸素脳症者を、ICF「活動と参加」48項目にて評価したところ、(1)記憶障害や発動性の低下が、ADL低下や社会参加の少なさに関連していること、(2)CAS日常生活行動、やる気スコアや流暢性で把握できる発動性の低下は、FAM運動や認知、ICFの一部の「活動と参加」のコードと相関していること、(3)ICFは低酸素脳症者の生活障害や支援すべき事柄を一部把握していること、が示唆された。
医療と福祉の共通語として、さらに家族も含めてICFを利用するためには、ICFコアセットを利用する方法がある。脳損傷者用に考案された脳外傷コアセット簡易版の「活動と参加」のいくつかの項目と、FAM認知、TBI-31、 Zaritの値との間に相関がみられた。家族でも簡便に使用できるICF脳外傷コアセット簡易版(質問紙版)は、家族の把握する「活動や参加」状況を医療者や福祉従事者が理解することに、ひいては家族支援に利用できる。

Ⅳ 低酸素脳症者の社会支援関連領域

発動性が低下し外界からの介入に拒絶もみられる低酸素脳症者では、社会参加の広がりがなされにくく、無為と拒否とが増強し、家族の心身的負担がさらに大きくなる。低酸素脳症者に特化した当事者の会は少ない。そんな中で、精神科リハビリテーションの基本原則の考え方を、脳損傷後の高次脳機能障害者の場合にも当てはめ支援していくことができる。三つの障害区分を区別することなく支援していく障害者自立支援法が2006年に施行され、2013年4月より、疾病や障害による支援システムの違いをよりなくしていく方向で、障害者総合支援法に変更された。精神科リハビリテーションが対象とする疾患・障害も、従来からの統合失調症、アルコールや認知症に加えて、発達障害、高次脳機能障害と広がりをみせている。

Ⅴ 高次脳機能障害者の医学的支援関連領域

低酸素脳症者の発動性の低下や注意障害、記憶障害に対して、外傷性脳損傷者の高次脳機能障害に対する薬物療法が一部参考になる。適切な時期に医学的リハビリテーションで行われている方法を用いて再評価や介入を行うことが、低酸素脳症者の生活の質を向上させ社会参加を促進する。

今後の課題

社会参加に至らない在宅生活者、施設入所者、就労しても適応障害を起こす者の長期的予後・支援が今後の課題である。記憶障害が特に重篤な者、身体能力が大きく損なわれている者、小児期発症の低酸素脳症者への支援も今後の課題である。

(先崎章、2015.8.22)

解説 低酸素脳症からの回復

脳への酸素供給が停止すると、人間は速やかに死亡する。常識である。
脳への酸素供給が一定時間停止すると、脳に不可逆的な障害が残る。医学常識である。
だがそこから先は? どういう障害が残るのか? それは回復するのか? どんなリハビリテーションが有効なのか?
海馬の神経細胞が低酸素状態に対して特に脆弱であることは神経生物学的にはよく知られているが、そこから臨床像までにはかなりの隔たりがある。低酸素脳症の実際の臨床例は、記憶障害以外にも様々な高次脳機能障害を呈するのが常だ。症状の把握から治療、認知リハビリテーション、そして社会的支援のあり方まで、低酸素脳症の臨床は課題が山積している。
それをどこまでも実践的に追究したのが先崎章教授(東京福祉大学社会福祉学部。埼玉県総合リハビリテーションセンター地域支援担当部長を兼ねる)を代表者とする研究班の本報告書『低酸素脳症者の実態、生活支援、社会支援についての多施設共同研究』である。
救命医療技術の進歩によって、かつてであれば生命を失っていた脳損傷から、多くの人々が生還できるようになった。その結果、後遺症としての高次機能障害を有する人々の数が急増しているのもまた厳然たる事実である。これに伴い、低酸素脳症に限らず、高次脳機能障害の認知リハビリテーションの需要は日々増大している。
先崎章教授は、外傷性脳損傷、低酸素脳症などの最も多くの臨床例と接し、リハビリテーションを実践している医師の一人である。本報告書は彼の仕事が形になった貴重な一冊で、臨床上示唆に富む多数の記述が含まれている。

なお、高次脳機能障害についての基礎知識から、治療・リハビリテーション・就労支援までを、先崎教授が実際のケースを紹介しつつまとめた著書として、

高次脳機能障害 精神医学・心理学的対応 ポケットマニュアル
(医歯薬出版、2009年)

がある。
世の中の「ポケットマニュアル」「ポケット事典」等には、一体どういうポケットに入れるんだと言いたくなるサイズの本も多いが、『高次脳機能障害 精神医学・心理学的対応 ポケットマニュアル』は、新書版で文字通りポケットに携帯できるハンディな名著である。

(村松太郎、2015.8.26.)

【1】Bálint症候群における視空間ワーキングメモリーの低下
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科 部長)
Funayama M, Nakagawa Y, Sunagawa K
Visuospatial working memory is severely impaired in Bálint syndrome patients
Cortex 2015: 255-264 (http:// dx.doi:10.1016/j.cortex.2015.05.023)

【2】Bálint症候群における電化製品のボタン操作
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科 部長)
Sunagawa K, Nakagawa Y, Funayama M
Effectiveness of Use of Button-Operated Electronic Devices Among Persons With Bálint Syndrome.
Am J Occup Ther. 2015 Mar-Apr;69(2):6902290050p1-9. doi: 10.5014/ajot.2015.014522.

【1】 Bálint症候群における視空間ワーキングメモリーの低下

両側頭頂葉の損傷のためにBálint症候群を生じている患者さまは、視覚が保たれているにもかかわらず、部屋の中でも迷ってしまったり、物体に視線を向けられなかったり、物体をつかみ損ねるなど、自分と周囲、あるいは、物体同士の位置関係の把握が困難となる視空間障害が生じることが知られています。視空間障害の原因のひとつには、視空間情報を脳内でイメージ化できない、あるいは、イメージがすぐに消えてしまうことが考えられています。しかしながら、今まではこれを証明する臨床研究はありませんでした。
筆者らはBálint症候群6名における脳内での視空間イメージの能力を検討するために、視空間イメージの保存時間やイメージ能力を測定することができる視空間ワーキングメモリーの検査を行いました。結果は、対照とした右頭頂葉損傷群(15名)と健常群(26名)と比較してBálint症候群では軽度Bálint症候群4名も含めて視空間ワーキングメモリーの成績が低下していました。これらの結果から、Bálint症候群の日常生活の困難さは、脳内の視空間イメージ能力が低下しているためである可能性が考えられました。
筆者らは、これらの結果を踏まえて、さらなる頭頂葉の機能の解明のみならず、頭頂葉損傷の患者さまたちの日常生活動作のリハビリに役立てていきたいと考えています。

【2】 Bálint症候群における電化製品のボタン操作

上記のBálint症候群は視空間障害のために多くの日常生活が困難となります。たとえ家庭内の入浴や洗面といったADLレベルは保たれていても、多くの患者さまで視空間障害のため複雑な道具を使うことが困難となっています。特にパソコン、銀行のATM、携帯電話など近年必須となった電子機器の使用はかなり難しくなっています。しかし、Bálint症候群での電子機器の使用能力に関する臨床研究は未だに行われていませんでした。
筆者らはBálint症候群(7名)の電子機器操作能力を研究するために、スマートフォン、旧式の携帯電話、電卓の3種類を用いて数字の入力能力(1桁から11ケタ)を検討しました。結果は、対照とした健忘群(8名)と健常群(8名)と比較してBálint症候群では軽度Bálint症候群4例も含めて数字の入力の成績が低下していました。ただ、色と高さが周囲と異なるボタンを持つ電卓では、重度Bálint症候群であっても桁数の少ない場合は数字の入力が可能でした。筆者らは、これらの結果をBálint症候群を含めた頭頂葉損傷の患者さまに対する電化機器のリハビリに応用していきたいと考えています。

(船山道隆、2015.7.12.)

解説 不思議な病態の解明から実効ある認知リハビリテーションへ

見えているのに見えていない。バリントBálint症候群とはそんな病態である。
教科書を開けば、精神性注視麻痺(視線を随意に移動できない)、視覚性失調(視覚刺激に応じた協調運動が悪く目の前の対象をつかめない)、空間性注視障害(注視している対象以外に注意が及ばない)の3つがバリント症候群の特徴である・・・と記されているが、このように定義にするとかえってわかりにくい。むしろ、「検査上は視覚は保たれているが、実生活では見えていないかのようである」「視覚的イメージがすぐに脳から消えてしまうようだ」という臨床的な描写のほうがわかりやすいであろう。

頭頂葉から後頭葉のある一定領域の損傷の際に発生するこの稀な症候群は、バリントが1909年に記載して以来、不思議な症候として注目されてきたが、メカニズムは不明のままであった。そんな中で、視覚的ワーキングメモリーの障害は、一つの有力な仮説となっていた。ワーキングメモリーとは、いわば「心の黒板」である。情報を一時的に保持する脳内のバッファーのような機能を指す。たとえば数列を即時に記憶して逆唱するのは、ワーキングメモリーの機能である。

バリント症候群の視覚的ワーキングメモリー障害仮説は、臨床症状からは首肯できるものの、そもそも「見えていない」と表現されるほどの視覚機能の障害があるバリント症候群で視覚的ワーキングメモリーを検証するのは至難の業である。
本論文【1】Bálint症候群における視空間ワーキングメモリーの低下は、足利赤十字病院神経精神科の船山道隆部長がバリント症候群のこの歴史的難題に挑んだ仕事である。それを可能にしたのは、この稀な症候群を複数例発見する臨床医としての手腕と、症状レベルに合った神経心理学的検査を選択する研究者としての慧眼であった。

船山部長による論文【1】の紹介文は
「筆者らは、これらの結果を踏まえて、さらなる頭頂葉の機能の解明のみならず、頭頂葉損傷の患者さまたちの日常生活動作のリハビリに役立てていきたいと考えています。」
と結ばれている。
この一文はある意味定型的な結びである。世の多くの論文はこのように、次のステップへの希望を語る形で結ばれている。そして世の多くの論文の著者はそこで歩みを止めている。論文の結びがそのまま仕事の結びになってしまうのが常だ。

船山部長はそうではなかった。希望の実現に向けて直ちに一歩踏み出した。それが本論文【2】Bálint症候群における電化製品のボタン操作である。

急速に日本社会に普及したIT機器は、高次脳機能障害の人々にとっては諸刃の剣である。IT機器は一方では「認知装具 cognitive orthoses」「認知義肢cognitive prosthetics」などの用語が示すように、認知リハビリテーションに活用できる有力なツールであるが(本サイト2015.5.25. 『認知リハビリテーション実践ガイド』第7章 外的エイド使用の訓練 参照)、他方では生活の自立を阻むバリアとなっている。たとえば単純なテンキー入力ができなければ、銀行のATMや携帯電話などを使用することができず、すると現代社会の生活においては深刻な障害となる。「見えているのに見えていない」バリント症候群では、テンキー入力は重要な課題である。
本論文【2】は、この問題に着目し、バリント症候群の人々の日常生活改善を目指した仕事である。スマホ、ガラケー、電卓は、テンキーという意味では同じでも、ボタンの視覚的形状が少しずつ違っている。健常者にとっては、言われてみれば違っているなと思いあたる程度であるが、バリントの人々にとっては操作の可否を決定的に左右する違いになり得る。本論文【2】はそれを実証的に示したもので、IT機器のリハビリテーションの計画立案に際しての重要な基礎データとなるものである。

船山部長の本論文【1】【2】は、バリント症候群という歴史的な病態について、そのメカニズムの解明にとどまらず、原著の記載から百年を過ぎた現代のIT機器のリハビリテーションに至る、雄大なスケールの仕事である。その根底には高次脳機能障害者の日常生活機能の改善という最終目標がある。認知のバリアフリーは、神経心理学の目指す重要なゴールの一つである。

(村松太郎、2015.7.26.)

統合失調症のワーキングメモリの障害に関するコンピューテイショナルアプローチ
沖村宰(慶應義塾大学医学研究科大学院博士課程)Okimura T, Tanaka S, Maeda T, Kato M, Mimura M
Simulation of the capacity and precision of working memory in the hypodopaminergic state: Relevance to schizophrenia.
Neuroscience, 295: 80-89, 2015.

統合失調症におけるワーキングメモリ(WM)障害の脳基盤は、前頭前野(PFC)でのD1受容体機能の低下であるという実験的アプローチからの仮説がある。実験的アプローチというのは、ヒトと動物を対象とした神経心理学的アプローチや神経生理学的アプローチである。この仮説をこれらのアプローチから検証し、詳細な病態メカニズムを解明し、治療戦略を開発することは現在のところ困難である。何故であろうか?この仮説に関する理想的な研究目標を考えてみると明らかになる。すなわち、未治療の統合失調症患者に対して、動物実験でのような神経生理学的アプローチによるPFCのD1受容体機能とWM障害の関連性を示し、脳神経回路レベルでの動的な測定によるWM障害の機序の解明という理想的な研究目標は現在のところ困難であるということである。しかし、統合失調症におけるWM障害が、この病の顕在発症前後から人生の終わりまで続き、患者の人生の負担になっていることを鑑みれば、何らかの進展が必要とされる。その1つの進展として、理論的アプローチであるComputational psychiatry(計算論的精神医学)というものが、近年、生物学的な妥当性をもちうるまでに発展し、統合失調症の病態メカニズムの理論的枠組みへの示唆を与えてきている。

聞きなれぬアプローチである計算論的精神医学について概要を述べる必要があろう。このアプローチは、実験物理学と理論物理学とのアナロジーでいえば、後者である。すなわち、精神疾患の研究において、実験的アプローチから得られた脳神経基盤や行動・症状の知見を数理モデルで表現し、数理モデルからもたらされる演繹的結果から、実験的アプローチの研究への予測を与えるという役割である。メリットとしては、①数理モデルが形成されれば、モデルに変化を加えることで簡単に障害モデルを形成、すなわち、未治療患者のモデルを作成できること、②モデルの動的振る舞いも簡単に表現できるので、詳細な病態メカニズムを追及できること、③障害モデルに対し、さらに数理的に変化を加えることで障害が健常化するかを簡単に検証できるので、治療戦略の仮説検証、例えば、薬物の機序からの治療効果の予測、これまで考えられなかったような治療戦略の示唆が可能であることが挙げられる。

このメリットが実験的アプローチに新たな視点を加え、統合失調症のWM障害の治療に光を投げかけられるようにするためには、計算論的精神医学が統合失調症の病態メカニズムの理論的枠組みへの示唆を与えるだけでは事足りず、実験的アプローチに直接リンクできるほどの詳細な描写をもって脳基盤のダイナミクスや症状の特徴を与えなければならず、その上で治療戦略への示唆が実験的アプローチで取込み可能となる。これまで、詳細に脳基盤とWM障害を対応付けた計算論的精神医学的研究は、著者の知る限りでは存在しない。

本研究の方法であるが、脳基盤として、NMDA、AMPA、GABAA受容体、Nap, Ca依存性Kイオンチャンネルをもった錐体細胞と抑制性介在ニューロンを数理モデル化し、相互作用をもつように全てつなげた。これら各受容体やイオンチャネルの機能は、D1受容体を介したドーパミン調節により増減できるようにした。この神経回路モデルによるWMの実験系として、円周上に10°毎離れた36個のスポットを用意し、4つのスポットに同時に100ミリ秒間キューを与え、キューが消えた後、2000ミリ秒間、与えられた4つのスポットの位置を保持しておけるかという系をたてた。ドーパミン濃度を枯渇状態から健常者レベル、飽和状態と7段階に変えて、WM保持の能力をWM容量(4つのスポットのうちいくつ保持できているか)とWM精度(保持されたスポットの位置がどれだけ正確であるか)をシミュレーションした。

結果として、WM容量は、ドーパミン濃度が健常者のレベルのときに最高となり、それより少なくても多くても低下した。これは、Goldman-Rakicらが示唆したD1受容体を介したドーパミン調節とWM機能のinverted-U特性を具体的にシミュレーションで再現化したことを意味する。また統合失調症ではWM容量が低下することが示されているが、これとも一致した。しかしWM容量はドーパミン濃度が低下しても増加してもWM容量が低下すること、他精神疾患でもWM容量の低下は認めることを考えると、WM容量低下だけを示すことでは統合失調症の特徴を描ききれていない。そこで、WM精度の結果の動的振る舞いを計算すると、ドーパミン濃度が低下しているときには、時間とともに保持されたスポットの位置がランダムに移動し、結果としてWM精度は低下した。ドーパミン濃度が増加しているときには、保持されたスポットの位置は健常者のときと同じ程度の正確さでもって維持された。統合失調症でのWM精度は低下しているか健常者と同じかは、先行研究では一致していない。実験系や測定方法の問題もあるが、薬物の影響もある。例えば、クロザピンの内服をしている患者が多かった患者群と健常者群の間でWM精度の差がなかったという研究がある。この研究について、本研究からの考察を試みると、まず、本研究から示唆された統合失調症におけるWM容量と精度の両方の低下の機序は、①D1受容体機能の低下は、NMDA受容体の機能の低下をもたらすので錐体細胞の発火が維持できなくなるためにWM容量が低下し、②D1受容体機能の低下は、NMDA受容体の機能の低下と抑制性介在ニューロンの発火の低下をもたらすことでランダムなノイズの影響が増加するためにWM精度が低下する、である。次に、クロザピンには、D1受容体機能以外への薬理学的特性もあり、直接的にNMDA受容体機能を増加させ、抑制性介在ニューロンの興奮性を高めるという報告がある。従って、上記本研究からの示唆とクロザピンの薬理学的特性を合わせると、クロザピンの内服患者では、WM容量よりもWM精度の方がより良く改善され、結果、WM精度のみが健常者と同じになるという例にあげた研究の結果が演繹的に説明される。このように、神経心理学と精神薬理学を包括したより詳細な考察がなされることは、計算論的精神医学の一つのメリットである。また、本研究では治療戦略に関してのシミュレーションも行った。D1受容体機能が軽度低下のときにNMDA受容体の機能のみを高めるとWMの機能は、容量と精度ともに改善した。このことは、NMDA受容体の機能を増強する薬物の臨床治験へのサポート、抗精神病薬との併用療法によりWM障害が改善するという治療戦略を示唆している。

本研究は、WMの保持の側面しかとらえていないこと、また数理モデルとして多数ある抑制性介在ニューロンを1つにしている点などの多くの限界があるが、計算論的精神医学というアプローチが統合失調症の病態メカニズムと治療戦略についての理論的示唆に大きな可能性を秘めていることが示されたと考える。本研究での数理モデルをさらに大規模かつ精巧にし、統合失調症の医療の一助になればと考える。

(沖村宰. 2015.6.15.)

解説 計算論的精神医学で統合失調症の謎に迫る

生物学的精神医学は、優れて実証的である。
臨床精神医学は、優れて実務的である。
計算論的精神医学は、この両者を橋渡しする新たな方法論である。
まさに待望の方法論と言えよう。なぜなら、生物学的精神医学の知見が近年ますます蓄積されているのにもかかわらず、生物学的なデータと臨床的な症候の間のギャップが依然として埋まらないからだ。
統合失調症に例を取れば、ドーパミンセオリーが提唱されてからの数十年間で、統合失調症の脳とドーパミンについての論文は膨大に出版されているが、統合失調症の臨床症状の大部分は、いまだ説明されるに至っていない。生物学的精神医学の知見と臨床精神医学の間の隔たりは大きく、そして深いのが現実なのである。このギャップを埋めるためには、従来からの精神医学や神経科学では不可能で、新たな方法論を大胆に取り入れなければならない。
そこで大きな期待が懸けられているのが計算論的精神医学 Computational Psychiatryである。

計算論的精神医学とは計算論的アプローチを手法とする精神医学である。計算論的アプローチでは、脳が外界といかに相互作用し情報を処理しているのかに着目する。いわば情報処理機構としての脳・神経システムの計算原理を探求する研究手法である。

東大で数理工学を学んでから医学に転じ精神科医となった沖村宰大学院生は、コンピューターを駆使し、統合失調症の脳内過程のシミュレーションを続けている。そこからの成果物の一つである本論文の圧巻は、いわゆる “inverted U” についての理解の深化である。Inverted Uは、Goldman-Rakicらが1995年のnature誌論文で初めて示唆したもので、「ワーキングメモリ容量は、ドーパミン濃度が健常者のレベルのときに最高となり、それより少なくても多くても低下する」という結果を、横軸をドーパミン濃度、縦軸をワーキングメモリ容量としたグラフに視覚化したものである。Inverted Uは、ドーパミンという物質と臨床症状のより実証的な接点を予感させる斬新で優れたものであったが、発表されて以来約20年が経過しても、統合失調症の症状への接近は遅々として進まない状態であった。沖村院生による本論文はこのギャップを埋める画期的なデータを示した研究である。

ワーキングメモリについて得られた本研究の結果は、より合理的な薬物療法戦略に繋がり得る。また、計算論的精神医学は、統合失調症の他の症状や認知機能の解明にも活用できる。Sense of Agency (自己主体感)もその重要なターゲットの一つで、沖村院生は現在、SoAタスク(本サイト2014.3. 前田講師「統合失調症の自我障害についての実証的研究」参照)への計算論的アプローチにも精力的に従事している。

「計算論的精神医学」が聞きなれぬ言葉から一般的な言葉となる頃には、統合失調症の病態理解も治療戦略も飛躍的に発展し、精神医学の臨床は現代とは異次元の風景になっているかもしれない。

(村松太郎、2015.6.22.)

認知リハビリテーション実践ガイド 医学書院 2015年6月1日発売監訳 村松太郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科 准教授)
訳 穴水幸子(国際医療福祉大学 講師)
  小口芳世(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)
  小西海香(慶應義塾大学医学部精神神経科)
  斎藤文恵(慶應義塾大学医学部精神神経科)
  高畑圭輔(独立行政法人放射線医学総合研究所)
  野崎昭子(東京武蔵野病院)
  藤永直美(東京都リハビリテーション病院)
  村松太郎(慶應義塾大学医学部精神神経科)

解説 エビデンスに基づく認知リハビリテーション

本書は
McKay Moore Sohlberg, Lyn S. Turkstra
Optimizing Cognitive Rehabilitation --- Effective Instructional Methods
The Guilford Press 2011
を、当研究室のメンバーが訳出したものである。
本書は邦題の通り、まさに「実践ガイド」である。この一冊があれば、認知リハビリテーションを実践できる。そのように断言しても差し支えないくらい、実地臨床がそのまま映し出された一冊である。臨場感溢れる臨床の実例がある。訓練の実際が記録されたワークシートがある。そのワークシートは本書の付表をコピーして、あるいはホームページからダウンロードして、すぐにも実地で使用可能である。そして本書に紹介されているリハビリテーションの技法にはすべて有効性のエビデンスがあることが、第Ⅰ部の基礎編に膨大な文献とともに示されている。認知リハビリテーションの臨床・研究両方における現代の第一人者であるSohlbergとTurkstraが著すことで初めて可能になった実践ガイドである。(あまりに実践的なため翻訳に困窮した部分もあった。著者らが臨床で用いていて、辞書には出ていないローカルな略語の意味がどうしてもわからなかった。そこでSohlberg先生に直接問い合わせたところ、” I am glad that our textbook will be useful to your people”というお言葉とともに、すぐに丁寧にご教示いただき、解決することができた)

構成が美しく、読みやすいことも本書の大きな特長となっている。全体を通してのキーワードはPIEである。数々の訓練技法が、
計画(P: Plan),
実行(I: Implementation),
評価(E: Evaluation)
という枠組みで整理されている。
認知リハビリテーションの実践とは、このPIEの流れにそって、次の問いに答えていくものであるというのが著者らの教えである:
WHO: 患者の特性
WHAT: ターゲットタスク (何を教えれば生活が改善するのか?)
WHERE: ターゲット環境 (どこでターゲットタスクが使われるのか?)
WHEN: ターゲットタスク実行のタイミング
WHY: ゴールの設定
HOW: 患者個別計画のデザイン

そして具体的な訓練法が、第Ⅱ部 実践編 に示されている。すなわち事実と概念(5章)、多段階ステップの訓練(6章)、外的エイド使用訓練(7章)、メタ認知的方略訓練(8章)、社会的技能訓練(9章)である。近年、認知リハビリテーションに急速に導入されてきている、IT機器を活用した訓練についての記載も豊富である。

原書には “Effective Instructional Method” と副題がつけられている。「効果的な教示法」。著者らの自信がこめられた副題だ。その自信には基礎と実践の両方からの裏づけがある。
まさに実践ガイドである。

なお本書は医学書院ホームページ
http://www.igaku-shoin.co.jp/bookDetail.do?book=86156
にも紹介されている。

(村松太郎、2015.5.25.)

高機能自閉スペクトラム症児における認知及び症状プロフィールの性差
熊崎博一(大阪大学連合小児発達学研究科 助教 福井大学子どものこころの発達研究センター 特命助教)Kumazaki H, Muramatsu T, Kosaka H, Fujisawa T, Iwata K, Tomoda A, Tsuchiya K, Mimura M. Sex differences in cognitive and symptom profiles in children with high functioning autism spectrum disorders . Research in Autism Spectrum Disorders 13-14: 1-7, 2015.

精神科外来において女児の高機能自閉スペクトラム症(Autism spectrum disorder: ASD)が二次障害を来たし受診となるケースをしばしば経験する。社会相互性の障害が一因となり、教育年齢ではいじめや不登校、青年期では職場不適応から暴力や犯罪などの様々な社会的破綻をきたし深刻な問題となっている。ケースに遭遇するたびに“何故もっと早く介入できなかったのか、健診では何故引っかからなかったのか”と悔しさを感じることもある。女児で高機能のケースは男児のケースと比べ幼少期には症状が見えづらいと言われており、女児の高機能ASDをいかに早期発見するかは喫緊の課題となっている。
我々はASDの性差について対象年齢を思春期前の狭い年齢範囲を対象として性差を調査した。WISCプロフィールについては各項目において有意な差を認めなかったが、CARS(Child Autistic Rating Scale)プロフィールについては女児で男児より嗅覚・味覚・触覚(近接感覚)について重症度が重いとの結果が出た。感覚過敏はASDの患者にとって実生活の中で抱く困難性の本質に近く、そのコントロールは社会性の獲得や対人関係の学習に重要な影響を及ぼすことからASDの核心部分との関連が深いとの見方もある。感覚の問題は低年齢においても特徴的であるが現在まで感覚の性差についての報告はほとんどない。ASDにおいて嗅覚特性が強いことがコミュニケーション能力や不適応行為の予後を示唆するとの報告があることからも嗅覚に着目する意義は大きい。今後嗅覚をはじめとした近接感覚に着目することで、女性のASD、とりわけ予後の悪い群への早期発見・早期介入につながるかもしれないと考えている。

(熊崎博一、2015.4.19)

解説 自閉スペクトラム症の診断精度を研ぎ澄ます

自閉スペクトラム症(ASD)は、男児のケースがはるかに多いことはよく知られている。それを説明する仮説として、Baron-Cohenによる有名なextreme male brain theory がある。ASDの認知機能の特徴はそのまま「男の脳」の特徴であり、それが女児のASDが少ない理由だとするのがこの仮説である。
この説明は納得しやすく、性差の生物学にも一致した合理的な理論に思える。だがあくまでも仮説にすぎないことには注意が必要である。納得しやすい仮説は、精密な検証がなされる前に受け入れられてしまうことがしばしばあり、その結果誤った道に迷い込む危険が生まれるのは、extreme male brain theoryも例外ではない。
その危険の一つが、女児のASDが見落とされやすくなることである。
熊崎博一助教は、児童精神科の豊富な臨床経験に基づき、多数の女児のASDが診断されないままに埋もれているのではないかという強い問題意識を持ち、本研究に着手した。そして女児ASDの近接感覚(嗅覚・味覚・触覚)の異常は相対的に重いというクリアな結果を得た。
ASDについての過去の研究論文によれば、IQによってその有病率の性差は異なる傾向が認められている。IQが高いと、男女比はより大きくなるのである(IQが高い女児ASDはより少ない)。これは、IQの高い女児は、自らのASD傾向を認識し、それを隠蔽することで適応しており、ASDであることが見えにくくなっているためであると考えられている。すると、認知機能に基づく評価は女児ASDの診断を混乱させることになり、正確な診断のためにはより生物学的な指標が求められる。
この意味でも、近接感覚(嗅覚・味覚・触覚)の測定が女児ASDの診断に役立つとすれば、臨床的に非常に有意義な知見であるといえる。
次のステップはこの結果をさらに洗練し、実臨床の診断に役立てることである。熊崎助教は、工学系の共同研究者が新たに開発した嗅覚測定機器を用いて、早速その仕事に着手している。治療に関しては、ロボットを用いた自閉スペクトラム症児への介入という先駆的な分野にも参入するなど、福井に拠点を置きつつ、国内外を精力的に飛び回り研究を続けている。

(村松太郎、2015.4.22)

他人の不幸は蜜の味
加藤元一郎 (慶應義塾大学医学部精神神経科教授)Takahashi H, Kato M, Matsuura M, Mobbs D, Suhara T, Okubo Y.
When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain: Neural Correlates of Envy and Schadenfreude.
Science. 2009; 323: 937-939.

解説 その先へ

慶應の神経心理学研究室を創始当時から約30年間にわたり牽引されてきた加藤元一郎教授の代表作の一つが、Science誌に掲載されたこの論文である。タイトルにあるドイツ語のSchadenfreudeという単語には、英語にも日本語にも適切な訳語がない。あえて訳せば「恥知らずの悦び」とでもなろうか。意味するところは「他人の不幸は蜜の味」である。人は妬む。他人の不幸を喜ぶ。人間の感情の中で最も醜いとされるこれらに挑んだ野心的な研究がこの「他人の成功を妬み、他人の失敗を喜ぶ --- 妬みとシャーデンフロイデの脳基盤」である。

巧妙な心理課題とfMRIを組み合わせた本研究の結果は大きく三つある。第一に、妬みの感情には前部帯状回が関連していること。第二に、妬みの対象の人物に不幸が起こると、線条体が活動すること。いずれも重要なデータであるが、前部帯状回が葛藤を処理する部位であり、線条体が報酬に関連する部位であることに鑑みれば、ここまでは従来の研究を同一平面上に拡大した結果であるとも言えよう。

本研究の圧巻はここからである。妬みに関連する前部帯状回の活動が高い人ほど、他人の不幸に対して線条体が強く反応する。それが本研究の第三のデータである。「他人の不幸は蜜の味」と強く感じる人と、それほどでもない人はどこが違うのか、それについての脳内メカニズムの一端を明らかにしたこの結果は、人間の感情についての脳科学に、立体的に新たな次元を書き加えた画期的なデータである。

自分がより良く生きたいという気持ちを人間の光だとすれば、妬みやシャーデンフロイデはそれに伴う影である。向上心の進化に伴う影。この影は恥知らずの行為を形成し、影が伸びれば犯罪にもつながる。進化は人間の心に様々な影を作ってきた。攻撃性。嘘。独占欲。等々。こうした影は、時として人間の光の部分を真っ暗に覆い隠してしまう。しかしだからといってこれらを道徳論で抑え込もうとしても成功しないことは、人類の長い歴史が証明している。人間の醜い部分から目をそむけても、醜さが消滅するわけではない。否認の防衛機制はいつか破綻する運命にある。

妬みやシャーデンフロイデに代表される、人間の進化に伴う醜い部分。これらがモンスターのように成長し、人類を破滅に導くことを防ぐためには、直視して正体を見極めることから始めなければならない。「俺が物を書くとしたら進化の本だ」、あるとき加藤教授が口にした言葉である。

いかなる研究データも、より大きな問いに答えるためのステップである。本研究では、「他人の不幸は蜜の味」の脳内メカニズムの一端が解明された。それだけでは興味本位にさえ見える。だがその先には、人類の幸福への道が開けている。道は長く、ゴールははるか彼方に思えるが、その道は確かに光に溢れている。妬みやシャーデンフロイデの脳内メカニズムの解明は、これらの感情のより合理的な解決へのスタートラインである。データを理解すること、そして次のステップに生かすこと。それが、優れた研究論文への最大の敬意である。

(村松太郎、2015.3.30.)

非現実的な思考にとらわれて就職活動に困難をきたしている頭部外傷の1例
堀田章悟(慶應義塾大学医学部精神神経科 臨床心理士)第24回認知リハビリテーション研究会 2014年11月1日 東京
堀田章悟、元木順子、江口洋子、小西海香、三村將

認知機能が比較的保たれているが社会的行動障害を呈する患者には、リフレーミングを用いた心理的アプローチが有効であると考えられる症例を報告した。

症例は40歳代男性、X-8年に頭部打撲し、前頭葉出血、脳挫傷と右硬膜外血腫を認めた。他院により高次脳機能のリハビリテーションと経過観察を受けていたが、その後、通院は中断していた。X年より当院に受診。認知機能検査において明らかな低下は認めないが、社会的行動障害を呈していた。
受傷後、一時は受傷前の職場に復帰したが、以前の職種に戻るのが難しかった。前職から再び依頼の声がかかるという非現実的な思考、病識の低下などから再就職活動に困難を生じていた。

本症例は神経心理検査上では成績良好で認知機能は保たれていた。以前に高次脳機能のリハビリを受けており、現在は就労支援施設のプログラムに参加中である。したがって認知機能のリハビリよりも、心理的側面からのアプローチの必要性を考え、自己認識の変化の促進を目標にリフレーミングを援用した心理療法を実施した。

面接を重ねるにつれ、当初は「単純な作業ばかり」「もっと重度の人が受けるもの」と否定的な見方を示していた就労支援施設のプログラムへの参加について、「リズムづくりにはなっている」「高次脳機能障害を抱えつつ働いている人の話が聞けそう」など新しい受け取り方を獲得し、その点を自ら話すようになった。さらに、面接者の問いかけに対して「前職への復帰はブランクのために難しいかもしれない」と、以前の非現実的な答えから、現在の状況を客観的に答える場面も見られるようになった。これらのことからリフレーミングを援用した心理療法により、職業に関する自己認識の変化を促すことができたと考えた。

(堀田章悟、2015.2.23.)

解説 思い込みを正す

キーワードはリフレーミングである。リフレーミングとは、思い込みを解きほぐし、新しい視点を受け入れさせるという心理療法の技法である。
通常は脳損傷者を対象に用いるものではないこの技法を、脳損傷者の中でも特に認知リハビリテーションが困難な社会的行動障害に適用するという果敢な発想を実行に移し、根気良く続けることによって成果を挙げたのが、堀田章悟臨床心理士の本報告である。
果敢といっても、単に奇を衒ったわけでは決してない。この症例個人が、顕著な社会的行動障害を有しているにもかかわらず、通常の認知機能検査の成績は保たれていたことに堀田臨床心理士は着目し、リフレーミングが有効であろうと予測したのである。一見すると大胆な彼の治療計画は、緻密な神経心理学的検査の分析に裏打ちされている。
脳損傷が、脳の機能の一部を失わせるのは冷厳な事実である。そのため治療者は、失われた機能は取り戻せないという敗北主義に陥りがちである。そうした治療者の側の思い込みが、脳損傷者への積極的なかかわりを阻む傾向があることは否めない。堀田臨床心理士の本研究は、リフレーミングを患者の治療に応用したことにとどまらず、一般的な心理療法は脳損傷者には適用できないという治療者の思い込みを正すリフレーミングの必要性を示唆するものと言えるかもしれない。

(村松太郎、2015.2.26.)

ターナー症候群における白質異常
山縣文 (慶應義塾大学医学部精神神経科助教)Yamagata B, Barnea-Goraly N, Marzelli MJ, Park Y, Hong DS, Mimura M, Reiss AL. White Matter Aberrations in Prepubertal Estrogen-Naive Girls with Monosomic Turner Syndrome. Cereb Cortex 2012; 22:2761-2768.

ターナー症候群(Turner Syndrome; TS)は、正常女性の性染色体がXXの2本なのに対し、X染色体が1本しかないことによって発症する一連の症候群である(45XO)。低身長、心疾患、二次性徴の欠如といった身体的特徴と視空間構成、遂行機能また社会認知が同年齢の健常者と比べ障害されているという認知特性を有している。TSを対象とした脳画像研究は、女性において、X染色体の異数性が認知や脳の発達へどのように影響するのかを理解するために重要である。過去のMRI研究からTSにおける視空間構成や計算能力の障害が頭頂葉の灰白質の体積減少や前頭−頭頂葉の機能低下と関連していることが示唆されている。さらに近年、作動記憶課題遂行中の前頭葉と頭頂葉の機能的結合がTSにおいて障害されていることも報告されている。一方で、Diffusion Tensor Imaging (DTI)を用いてTSにおける白質構造異常を調べた研究は過去に2編しかないが (Molko et al., 2004; Holzapfel et al., 2006)、それらは、mosaicとnon-mosaic genotype(モザイク型と完全型)を含んだheterogeneousなsampleであり、またエストロゲン治療のよる認知機能や脳の発達への影響を考慮されていない。そこで、今回、我々はエストロゲン治療を受けていない思春期前のnon-mosaicなTSを対象にその白質の構造異常についてMRIを用いて検討した。
3〜12歳のTS群(26名)と健常対照群(20名)を対象にTract-based spatial statistics (TBSS)、Atlas-based ROI analysis、Fiber-trackingといった 3つの異なる DTI解析方法とVoxel-based Morphometry (VBM)を用いて群間における拡散異方性(Fractional anisotropy; FA)と白質の体積の違いを調査した。
その結果、TSは視空間構成、表情認知、感覚運動、社会認知に関与する脳領域の白質繊維において健常対照群と比較して有意なFA値の低下を示した。特に全ての解析方法において一貫して左の上縦束および紡錘状回においてTSのFA値が低下していることが示された。
今回の我々の結果より、TSの認知特性に関連する脳領域において白質構造異常が示された。特に前頭葉と頭頂葉を結ぶ白質繊維である上縦束において微細な白質構造異常がTSに認められたことは現在までに集積されている脳画像研究の知見をさらに支持するものとなった。今後、TSだけでなくKlinefelter’s syndrome (47 XXY)、XYY syndrome (47 XYY)といった性染色体の異数性を有する他の遺伝子疾患も含めた脳画像研究を進めていくことで、性染色体遺伝子と脳の発達、臨床症状の関係(Gene-Brain-Behavior)を知る機会をさらに我々に与えてくれると期待される。

(山縣文、2015.1.21.)

解説 遺伝子から脳へ、そして認知機能へ

人間存在の根源ともいうべき物質、遺伝子。現代の神経心理学では、人間の行動を、そして認知機能を、遺伝子まで遡って研究することが可能になっている。山縣文博士は、遺伝子検査・脳画像検査・認知機能検査を駆使して、ターナー症候群という昔から広く知られている疾患に新たな光をあて、その本質に迫るデータを得た。
ターナー症候群は、染色体異常の中では頻度の高いものであるが、遺伝子的にも臨床的にも決して均一でない。X染色体が1本欠けている「完全型 non-mosaic」と、正常染色体を持つ細胞の混在を認める「モザイク型 mosaic」では、臨床像がかなり異なり、したがって脳の所見も異なることが当然に推定される。また、治療として用いられるエストロゲンは、認知機能にも影響する。ターナー症候群についての過去の研究は、こうした点についての厳密さに欠くため、信頼性にはかなりの限界があった。山縣博士は、完全型 non-mosaicで、かつエストロゲン治療を受けていないターナー症候群のみに対象を厳選することによって、従来の研究を大きく超えた地点に到達した。山縣博士のデータは、遺伝子から臨床像に至るターナー症候群のメカニズムの解明と新たな治療のターゲットの開発に繋がるものであるのみならず、Gene-Brain-Behavior(遺伝子-脳-行動)についての人類の知識の貴重な1ページを綴るものであると言える。
本研究は、山縣博士が2010年から2012年まで留学していたアメリカのスタンフォード大学(Center for Interdisciplinary Brain Sciences Research, Department of Psychiatry and Behavioral Sciences, Stanford University School of Medicine)で行った仕事である。現在山縣博士は、対象を発達障害に広げ、Gene-Brain-Behavior(遺伝子-脳-行動)のアプローチを継続している。

(村松太郎、2015.1.24.)

抗うつ薬ノルトリプリチンによる脳内ノルエピネフリントランスポーターの占有率
高野晴成 (放射線医学総合研究所 分子イメージング研究センター 臨床研究支援室 室長、分子神経イメージング研究プログラム)Takano H, Arakawa R, Nogami T, Suzuki M, Nagashima T, Fujiwara H, Kimura Y, Kodaka F, Takahata K, Shimada H, Murakami Y, Tateno A, Yamada M, Ito H, Kawamura K, Zhang MR, Takahashi H, Kato M, Okubo Y, Suhara T.
Norepinephrine transporter occupancy by nortriptyline in patients with depression: a positron emission tomography study with (S,S)-[18F]FMeNER-D₂.
Int J Neuropsychopharmacol 17(4):553-60, 2014.

Positron emission tomography (PET)は一つ一つの神経伝達系に特異的な放射性プローブを用いて、その機能を評価していくものである。計測の精度は放射性プローブの開発に大きく依存する。ノルエピネフリンはドーパミン、セロトニンと並ぶモノアミンの御三家の一つであり、その脳内トランスポーターは抗うつ薬の主要な標的でありながら、適切なPETプローブの開発は遅れていた。放射線医学総合研究所では世界に先駆けてF-18 FMeNER-D2を用いた脳内ノルエピネフリントランスポーター(NET)の人での測定方法を確立し、臨床応用を進めてきた。本研究ではNETに選択的な抗うつ薬ノルトリプリチンを服用中のうつ病患者の服薬量、血中濃度と脳内NET占有率を測定した。ノルトリプリチンは最小有効血中濃度が知られており、本研究のデータからその時の脳内NET占有率は約50%と推定された。すなわち、うつ病の治療においては50%以上の脳内NET占有率が必要であることが示唆された。ノルエピネフリン神経伝達は注意や意欲などの機能に関与しており、うつ病のみならず他の精神疾患においても検討が望まれる。このようにPETでは生きた人間で非侵襲的に脳内の生化学的な機能情報が得られるため、脳科学研究や精神神経疾患の臨床研究においてきわめて有用な道具である。

(高野晴成、2014.12.1)

解説 より洗練された抗うつ薬治療へ

抗うつ薬についての現代の精神医学が持っている知は、次のA, B, Cに要約することができる:
A. 抗うつ薬は、うつ病に有効である。これは、わかっている。
B. 抗うつ薬は、なぜうつ病に有効なのか。これは、よくわかっていない。
C. 抗うつ薬は、うつ病を有効に治療するためにはどのくらいの量を飲めばいいのか。これは、大体はわかっている。
すなわち、「このくらいの量の抗うつ薬を飲めば、うつ病はよくなるが、なぜその量が適切なのか、なぜうつ病がよくなるのかは、よくわかっていない」のが現状である。
ここには、「なぜその量が適切なのか」と「なぜうつ病がよくなるのか」という、二つの未解決の、そして重大な問いがある。この問いに対する答えが得られれば、うつ病のメカニズムについての理解は大きく進歩し、うつ病の治療法は大きく改善され、うつ病の人々の大きな恩恵になることは間違いない。
 放射線医学総合研究所高野晴成室長の本研究は、この問いの解決に大きく貢献するものである。抗うつ薬に限らず、薬の適量は、最も単純には飲む薬の量、次の段階としては血中濃度の測定によって決めるのが一般的だが、最終的には人体内のその薬のターゲットにどれだけ有効に到達しているかが決め手になる。抗うつ薬ノルトリプリチン(商品名ノリトレン)のターゲットがノルエピネフリントランスポーター(NET)であることは、かなり以前から明らかにされていたが、薬がそこにどれだけ到達しているかを測定する方法がなく、適量は血中濃度のレベルで判定する以外にない状況が続いていた。それを打開したのが、本研究の原題に示されている(S,S)-[18F]FMeNER-D₂という化学物質である。放射線医学総合研究所で開発されたこの化学物質によって、ノルトリプチリンにおいて「なぜその量が適切なのか」を明らかにした本研究は、基礎と臨床の融合による見事な結実と言えよう。そして「なぜうつ病がよくなるのか」という問いの解明にも繋がることが大いに期待される。
高野室長は現在、国立精神・神経医療研究センター病院 第一精神診療部 医長として精神科臨床を行うとともに、脳病態統合イメージングセンター 臨床脳画像研究部に所属し、ニューロイメージングを駆使したさらなる研究を進めている。

(村松太郎、2014.12.18)

ドイツアーヘンでの留学手記 ---ブーメラン---
加藤隆(Klinik für Psychiatrie, Psychotherapie und Psychosomatik, Universitätsklinik Aachen)臨床精神医学 43(11) 1675-1677, 2014.

MEG(Magnetoencephalography)とは、脳の神経活動に伴って生じる磁場変化を頭蓋骨に接したコイルで測定し、その活動源の時間的・空間的定位を行う脳機能画像研究である。空間定位のモデルには様々な方法が知られているが、基本的には個々人の脳に即した座標系を用いることがもっぱらであり、それ故MEG手技における最大の問題点は標準脳における活動への解釈が極めて困難な部分であると考えられる。統計学的な処理を極めて煩雑とさせ、fMRIと比較された場合の空間分解能の低下に繋がるこれらの問題は、新たな解析方法の開発と併せて是非とも解決されなければならない。近年Matlabをプラットフォームとして動作するSPM(Statistical Parametric Mapping)が、得られたMEGデータの統計的解析を可能としつつあり、著者はMatlabの習熟と併せて最新の解析手技をドイツ・アーヘンにて学んでいる。

(加藤隆 2014.11.19)

解説 充実のドイツ生活

慶應で学位取得後、さらなる躍進を目指してドイツに飛んだ加藤隆博士の留学記が『ドイツアーヘンでの留学手記 ---ブーメラン--- 』である。
ドイツ語という言語についての加藤博士自身の個人史と論評と現状から始まり、アーヘンという街と彼の勤務先であるアーヘン工科大学(ノルトラインヴェストファーレン州立の技術専門大学)の紹介、そして学生時代のヨットの経験を生かした流体力学理論と脳機能解析における統計の習熟についての論述、さらにはドイツ語学習とMatlab学習の深い関連性まで、簡にして要を得た流れるような文章に、原著論文さながらの注がつけられることで、学術的な深みも確保された短報となっている。難を言えば加藤博士が激務の合間に獲得されたと日本の我々に伝えられている休暇の量と質への言及がないことだが、そこまで追及するのは無粋というものであろう。他に例を見ない優れたこの留学記に、さらにここで解説をつけるのは蛇足と思われる。副題の謎めいた「ブーメラン」という単語の解読を含め、ぜひ原文をお読みください。臨床精神医学2014年11月号掲載。もちろん日本語で書かれている。

(村松太郎、2014.11.21.)

マキャベリ的知性と前頭葉眼窩面におけるドーパミンD2受容体
森口翔(慶應義塾大学医学研究科大学院博士課程)Dopamine D2 Receptors in the Orbitofrontal cortex and the Machiavellian intelligence
Moriguchi S, Yamada M, Mimura M, Suhara T
The 10th International Symposium on Functional NeuroReceptor Mapping of the Living Brain May 21 – 24, 2014, The Netherlands

神経心理学研究室所属の大学院博士課程2年目の森口です。
私は主にPET (positron emission tomography)を用いた研究をしており、現在は心理評価とPETを用いて脳のどの部位がその心理と関連しているかということについて研究しております。内容はといいますとマキャベリ的知性とドーパミン機能との関連です。マキャベリ的知性の測定はマキャベリの著書である『君主論』からリーダーとなる資質を備えた特徴を抽出しそれをもとに各被験者のマキャベリ度合いを測定します。そしてそのマキャベリ度合いと各被験者のドーパミン機能をPETにて測定したという内容です。こちらに関しましては、まとまり次第改めてご報告させて頂ければと思っております。
今回、この「マキャベリ的知性とドーパミン機能」をNeuro Receptor Mapping 2014という学会で発表してきました。
そこでは心理機能とPET研究で有名な先生と話をする機会もあり緊張しました。海外の学会だと旅費などでお金はかかりますが、世界の研究者の意見を聞けるという意味で国際学会への参加は有意義だと思います。大学院生ですと臨床を行っていた頃よりも休みが取りやすいため国際学会などへの参加も比較的しやすくなります。また、学会ではその学会自体も勉強になるのですが、学会前にセミナーやプレコースなどが開催される事が多く、基本的なことも体系的に学ぶことができます。臨床を常勤でやっていた頃には病棟を長期間あける事が出来ず、学会の一部に参加するのみでこのようなセミナーに参加することは中々出来ませんでした。
もちろん臨床は大切ですし、アイデアの基礎になる重要なものですが、一度大学院で自分の臨床経験を整理するということも貴重な経験だと思います。
もし興味がございましたら是非神経心理学研究室で一緒に勉強しましょう。

(森口翔、2014.10.14.)

解説 様々な知性の形

頭が良いとはどういうことか。知性的とはどういうことか。知能が高いとはどういうことか。そもそも知能とは何か。
「知能検査で測定されたもの、それが知能である」
無意味と言いたくなる答えだが、一面の真理である。つまりは今、知能を定義することは出来ず、知能検査とされている検査バッテリーの成績であるIQを、一応は「知能」と呼ぶという約束事があるにすぎない。
だからIQが低くても優れた能力を持っている人はたくさんいるし、逆にIQが高くても実社会での能力が優れていない人はたくさんいる。人間の能力は、知能検査では測定できない様々な認知機能から成り立っているのだ。
その一つがマキャベリ的知性である。
「マキャベリ」とは、「君主論」の著者であるニッコロ・マキャベリ(1469-1527)に由来する。「マキャベリ的知性」は、近年のパーソナリティ研究で注目を集めている概念で、主として人を操作するうえで必要な知性を指す。この操作とは、いわゆる非道徳的なものも含む。人を騙す、媚びるなどのテクニックを駆使してでも、人を操作し、自らの目的を達成しようとする、そうした能力に長けている人が「マキャベリ的知性が優れている」と呼ばれる。
非道徳的なものを含むということは、マキャベリ的とは悪い性格であるという解釈もできることになる。だが、「憎まれっ子世にはばかる」のは今も昔も同じであるし、君主とまではいかなくても、集団のリーダーには多かれ少なかれマキャベリ的な傾向がある。マキャベリ的知性がなければ、リーダーとしての適性は不十分ということになろう。平均人の「道徳」は、リーダーという立場の人にそのままは適用できないのである。
森口翔大学院生は、PETを用いて、マキャベリ的知性と脳内ドーパミン活動の関連を追究し、オランダで開催された国際学会で発表することによって、世界の研究者と交流する機会を得た。学会発表は登山でいえば中腹であり、この研究結果の国際的な一流誌への論文発表が待たれるところである。

(村松太郎、2014.10.21)

前頭前野損傷後の展望記憶障害
梅田聡 (慶應義塾大学文学部教授)Umeda, S., Kurosaki, Y., Terasawa, Y., Kato, M., & Miyahara, Y.(2011) Deficits in prospective memory following damage to the prefrontal cortex. Neuropsychologia, 49, 2178-2184.

未来に実行すべき予定や約束などの記憶は,展望記憶(prospective memory)と呼ばれる.展望記憶の障害は,健忘症,認知症および前頭葉損傷において顕著であり,記憶障害の重篤度や認知症の進行程度の把握においても重要な意味を持っている.

展望記憶の想起には,2つのタイプの処理要素が含まれる.
ひとつは「何か行うべき行為がある」ということの想起(存在想起)であり,想起の自発性やタイミングが必要とされる要素である.
もうひとつは,「具体的に何を行うか」ということの想起(内容想起)であり,手帳などの記憶補助に依存することのできる要素である.

これまでの研究から,内容想起の神経基盤については,海馬をはじめとするパペッツ回路内の脳部位の関与が指摘されている.一方,存在想起の神経基盤については,前頭葉の関与が指摘されてものの,詳細な部位については明らかにされていない.
そこで,74例の脳損傷例を対象として,番号札課題と呼ばれる課題を用いて,脳内のいずれの部位の損傷が存在想起のパフォーマンス低下を生み出しているかという点について検討した.

その結果,存在想起のパフォーマンスに影響を与える部位として,1) 右前頭前野背外側部,2) 右前頭前野腹内側部,3) 左前頭前野背内側部,の順に深い関与が認められた.これらの部位はいずれもブロードマンの10野に位置しており,前頭前野の先端部周辺が,自発的な意図の想起を可能にする処理を担っているものと考察された.

(梅田聡、2014.9.3.)

解説 未来の記憶

岡本太郎の『明日の神話』は、渋谷駅、井の頭線とJRの連絡通路にある巨大な壁画である。常に人々で溢れる場所に設置されたこの作品には、原爆の炸裂する瞬間が大胆な色彩と構図で描かれている。人類の悲劇をストレートに描いた芸術作品としては、ピカソの『ゲルニカ』が有名だが、この二つの作品の際だった違いは、そのタイトルにある。『明日の神話』とあえて逆説的なタイトルをつけた岡本太郎は、悲劇を悲劇としてだけ捉えるのではなく、未来に向かって燃え上がる人間の誇りをこの作品にこめたとされる。
「神話」という言葉には遠い過去のものというイメージがあるが、いかに神話とはいえ、それが作られた時点においては現代であり、これから作られる神話は未来の神話、明日の神話だ。

梅田聡教授(慶應義塾大学文学部心理学専攻)の論文のタイトルにある『展望記憶』とは、未来についての記憶である。
「記憶」とは、「思い出す」ことによって目に見えるものとなり、「思い出す」対象は過去のものに限ると考えがちであるが、人間には未来の記憶もある。予定を思い出すこと。まえもって予定していたことを、適切なタイミングで思い出し実行すること、そのための記憶が展望記憶である。社会で生活していくうえで、予定を正確にこなすことが大切なことは言われるまでもなく明らかで、事実、脳損傷者の社会復帰においては、過去の記憶よりもむしろ未来の記憶、すなわち展望記憶の障害がバリアになることはよく指摘されている。
 展望記憶は、専門的にみるとかなり複雑な構造を持ち、非常に多くの要因がかかわっている認知機能であるが、「存在想起」(予定があったという事についての想起)と「内容想起」(その予定が具体的に何であったかという事についての想起)という二つの過程に分節するという発想が、展望記憶の研究を加速した。(梅田聡、小谷津孝明: 展望記憶の理論的考察. 心理学研究 69: 317-333, 1998)

本論文、『前頭前野損傷後の展望記憶障害』は、展望記憶の二つの要素のうちの一つである存在想起に前頭前野の先端部周辺が強くかかわっていることを、巧妙な神経心理学的検査とニューロイメージングの組み合わせによって示した研究である。
脳内の関連部位が明確に示されたことで、展望記憶の理論的研究、さらには認知リハビリテーションの方略は、さらに大きく発展するであろう。

一般に、過去の出来事をよく思い出せない人は「記憶力の悪い人」と呼ばれるが、約束などをすっぽかしてしまう人は「信頼できない人」と呼ばれる。認知機能の障害という観点からは、過去についての記憶障害も未来についての記憶障害も差異化することは出来ないはずだが、展望記憶障害は、このように不当ともいえる評価を受けがちである。同様のことは、多くの認知機能障害にも共通する事情である。神経心理学的研究の進歩によって、人間の認知機能の実像が明らかになっていくにつれて、障害者への偏見も解消していくことが期待される。

渋谷駅の雑踏の中にそびえる『明日の神話』のように、医学研究もすべての人に開かれたものになって初めて、その真価が発揮されると言うべきであろう。

(村松太郎、2014.9.24.)

統合失調症の「過大な自我」のSense of Agency タスクによる評価
是木明宏 (慶應義塾大学医学部大学院博士課程)The ‘Exaggerated Self’ in Schizophrenia evaluated using the Sense of Agency task (Keio method, trial-by-trial ver.)
Koreki A, Maeda T, Fukushima H, Okimura T, Takahata K, Umeda S, Iwashita S, Kato M, Mimura M
ASSC (Association for the Scientific Study of Consciousness) 17
San Diego, CA; July 12-15, 2013.

統合失調症ではsense of agency(SoA)の異常があることは当教室の研究を含めて今までに示されてきた。SoAの成立機序として、「予測」と実際の感覚フィードバックが一致するかどうかというForward model(一致すれば自分がやったと感じる)が提唱されているが、統合失調症では「予測」の異常があると先行研究で指摘されている。しかしその「予測」の異常がどのようなものか、またその異常がSoAにどのように関わってくるかは明らかではなかった。
今回の研究では、慶應独自のSoA課題を改変して行うことで、統合失調症患者の「予測」が「遅れている」可能性を示すことができた。さらにその「予測」の遅れが実験上での過剰なSoAに繋がる可能性も示された。この過剰なSoAは統合失調症の関係妄想を説明しうる。しかし一方で幻聴やさせられ体験は説明できない。「予測」が遅れる分、Forward modelに基づけば感覚フィードバックと一致しなくなりSoAが低下すると考えられ、これが幻聴やさせられ体験に繋がるとも考えられるが、今後はさらなる検証が必要である。

(是木明宏、2014.8.1.)

解説 統合失調症の自我障害を客観化する

タイトルの「過大な自我」とは、統合失調症の臨床症状として見られる、「中東で戦争が起きたのは自分が○○をしたからだ」など、自分が外界に影響を及ぼしているという形で体験される自我障害を指す。統合失調症では他方、させられ体験や幻聴による命令のように、外界から自分に影響が及んでいるという体験、いわば「過大な自我」に対して「弱化した自我」といえる自我障害もある。これら症状は自我の境界の異常という共通点はあっても、現象としては正反対の性質を持っている。このような自我障害は、統合失調症の症状の中核として、サイエンスの手の届かない難問中の難問としての地位を保ち続けて来ていた。
是木明宏大学院生はこの自我障害に切り込んだ研究をサンジエゴのASSC (Association for the Scientific Study of Consciousness)でポスター発表し、Student Poster Awardを獲得した。
ASSCは、精神医学のみならず、神経科学、認知科学、心理学、哲学など、様々な分野の専門家が参集する、「意識」に関する学会である。今回の受賞は、統合失調症の症状への学際的な注目という観点からも、大きな意義を有するものである。
この研究で用いられたツールは、当研究室の前田貴記講師が中心となって開発したSense of Agency Task (SoAタスク)(本サイト 2014.3 前田講師『統合失調症の自我障害についての実証的研究』参照)である。是木院生は前田講師の原法を改変し、一試行ごとに時間バイアスを調整するという巧みな手法を用い、統合失調症における「過大な自我」がどのように形成されるかについて行動実験的に示すことに成功した。
是木院生は、行動実験にとどまらず、ニューロイメージングも駆使しての統合失調症の神経基盤の解明を研究テーマとしており、現在、慶應の関連病院である駒木野病院(東京都八王子市)に併設されている精神医学・行動科学研究所にて、SoAタスクを用いた機能的MRI(fMRI)研究、DTI (Diffuse Tensor Imaging)研究が進行中である。さらなる発展と成果が期待される。

(村松太郎、2014.8.24.)

逆きつね検査を用いた、軽度アルツハイマー病における頭頂葉機能低下による視空間機能障害の検出について
田渕肇(慶應義塾大学医学部精神神経科講師)Tabuchi H, Konishi M, Saito N, Kato M, Mimura M.
Reverse Fox test for detecting visuospatial dysfunction corresponding to parietal hypoperfusion in mild Alzheimer’s disease.
Am J Alzheimers Dis Other Demen. 29 (2) :177-182, 2014.

アルツハイマー病では緩徐に進行する記銘力障害がよく知られているが、視空間認知機能の低下も病初期から認められる(記憶障害に先行して生じるとの主張もある)。今回我々は、模倣による新しい手指構成検査(逆きつね検査)により軽度アルツハイマー病患者の視空間認知機能を評価し、診断における有用性を検討した。
逆きつね検査は約1分程度の簡便な検査である。まず検査者は両手でそれぞれ、親指先を中指先・薬指先とくっつけ、人差し指と小指をまっすぐに伸ばし、いわゆる影絵で使われる「きつね」の形を示す。さらに検査者は片方の手をひねり、右手の人差し指と左手の小指、左手の人差し指と右手の小指をくっつけて、「逆きつね」の形を作り、被験者に模倣するよう指示する。
慶應義塾大学病院メモリークリニックに通院している65〜89歳の軽度アルツハイマー病患者47名(Clinical Dementia Rating 0.5ないし1、平均年齢77.9 + 5.2歳)、認知機能正常の対照群18名(平均年齢75.1 + 5.2歳)を対象とした。アルツハイマー群では逆きつね検査の成功率は31.9%、対照群では94.4%であった。またアルツハイマー群において、逆きつね失敗群15名(平均年齢78.7 + 5.1歳)は成功群32名(平均年齢77.6 + 5.2歳)と比べて記憶・遂行機能などに関する検査結果に差がみられなかったが、脳血流検査において後部帯状回・楔前部を含む頭頂葉領域および側頭葉領域での血流低下を認めた。
近年、アルツハイマー病に関する診断基準が四半世紀ぶりに改訂され、髄液検査やアミロイドイメージングなどの画像検査が推奨されている。しかしこれらの検査を実施できる施設は限られており、通常の診療現場での診断では、臨床症状や神経心理学的検査結果などが重要となる。特徴的な症状を簡便かつ効果的に捉えることができる検査は、特に外来診療などでは有用な診断補助ツールとなると考えられる。

(田渕肇 2014.7.2)

解説 ベッドサイドからニューロイメージングへ

両手でそれぞれ「きつね」を作る。誰でも知っている影絵のきつねである。そして一方のきつねをひねって反転させ、二つのきつねを逆につなぐ。これだけである。これが「逆きつね検査」だ。初期のアルツハイマー病を診断するための、昔からある検査である。ローテクといってもいい。伝統的といってもいい。シンプルといってもいいし、簡便といってもいい。施行には何もいらない。手があればできる。短時間でできる。誰でもできる。そして信頼度は高い。だがメカニズムは不明だった。
田渕講師はこの伝統的な検査のメカニズムを、美しい論文に仕上げて発表した。論文の図は二つのみ。逆きつね検査の写真と、SPECTの画像である。この二つの図の関係をストレートに示した、明快なメッセージを伝える論文である。
ベッドサイドのローテクから重装備のハイテクまでを駆使するのが、現代の精神科診断である。両者の結合が診断には不可欠である。脳の機能画像はそれ自体では単なる統計結果の描画にすぎず、精密な臨床症状の分析と結合した時はじめて命が吹き込まれる。逆に、伝統的なベッドサイドの検査も、脳内メカニズムとの関連性が示された時はじめて科学性を獲得する。逆きつね検査というローテクとSPECTというハイテクを綺麗に結合させたこの仕事は、田渕講師の学位論文となった。
フィールドとなったメモリークリニックは、2008年、神経内科と精神神経科との共同運営で慶應義塾大学病院に開設された完全予約制のクリニックである。初診は、初期認知症、あるいは発症前の認知症が主で、これら対象者の早期診断・早期介入に大きく貢献するとともに、近未来の高齢化社会に向けての貴重な研究データが次々に生まれている。

なお、メモリークリニックの解説書として
『メモリークリニック診療マニュアル
鹿島晴雄/鈴木則宏 (監修), 田渕肇/伊東大介 (編集) 南江堂 (2011年発刊)』
がある。

(村松太郎、2014.7.21.)

日常生活上の行動障害と健忘を合併した広範な前頭葉挫傷の1例
— 追報告 受傷後24年 —
猪股裕子 (平川病院 言語聴覚士)第23回認知リハビリテーション研究会 2013年10月5日 東京
猪股裕子、平川淳一、浪岡政美、森山泰、梅田聡、加藤元一郎

【症例】50歳代、男性。X-22年、3階から転落し脳挫傷受傷、開頭血腫除去術実施される。以後、健忘、乱費、借金、アルコール乱用、暴言、片付けができないなどの行動異常あり。X-14年、生活の破綻とアルコールの問題でK病院 に入院し、入退院を繰り返しながら治療。X年当院受診し、アルコール治療と認知リハビリテーション開始。当初知的機能は比較的保たれていたが、前向性記憶(近時記憶、時間的序列、展望記憶など)の問題、及び言語性ワーキングメモリー容量の低下、注意障害(分配性・転換、転導性の問題)、遂行機能障害、前頭葉症状(固執傾向、柔軟性低下、被刺激性亢進、判断力低下、問題解決能力低下、脱抑制的、病識低下など)、顕著な日常生活上の行動障害がみられていた。MRI T2強調画像で、両側前頭葉広範囲に渡る低吸収、軽度の萎縮、脳室拡大を認めた。
地域関連機関と連携しながら、約2年に渡り記憶訓練(基礎訓練、アラーム訓練、外的補助手段活用)、注意力訓練、問題解決訓練、遂行機能訓練、生活面の支援プログラム(金銭管理訓練、問題行動に対するアプローチ他)を実施、経過中‘気づき’が増加し、僅かながらも社会生活におけるスキルや行動変容が図れてきた。神経心理学的検査上14年前の評価に比し、知的機能や記憶は大きな改善はみられなかったが、注意、前頭葉機能、遂行機能で若干変化が得られ、行動面にも変化がみられたため、X+2年、リハビリを終了した。
気づきに関しては、前頭葉機能の改善が自己認識力や日常活動の改善に寄与していることが考えられた。また、行動の変容が図れたことから、慢性期でも介入した意味があったと考えた。

(猪股裕子、2014.6. 20)

解説 24年間のフォローアップ

超慢性期における脳損傷者の認知機能や認知リハビリテーションの効果についてのデータは文献中にもほとんど存在しない。一つのケースを20年以上にわたってフォローアップすることは現実的には非常に困難なのである。しかもこのケースでは、前頭葉損傷の症状としての脱抑制が乱費や暴言やアルコール問題として顕在化しており、認知リハビリテーションのプログラムにのせること自体に大変な苦労が要求され、治療者の消耗によるフォロー中断の危機が常に存在する。
猪股裕子言語聴覚士は、このような数々の悪条件を乗り越えて熱心にケースに接し、超慢性期においても認知リハビリテーションが一定の有効性を持つことを示した。さらに神経心理学的検査成績を14年前と比較し、改善する機能と改善しない機能を峻別して日常生活機能との関係を論じた。
このケースの14年前のデータは、駒木野病院の森山泰博士が1999年の神経心理学会で発表したものである。森山博士も当研究室のメンバーであり、慶應神経心理学研究室の層の厚さと協力体制があって得られた貴重なデータであるといえよう。
様々な脳損傷によって障害された認知機能を回復させんとする試みが認知リハビリテーションである。実効果ある認知リハビリテーションのためには、精密な神経心理学的評価によって、その対象者において失われている機能と残存している機能を正確に把握することが必要条件で、現在では認知リハビリテーションは臨床に直結した応用神経心理学の一分野となっている。
猪股言語聴覚士がこの研究を発表した認知リハビリテーション研究会http://reha.cognition.jp/は、一般演題の発表時間が20分と他の学会に比して2倍以上に長く、認知リハビリテーションの実践について広く深い議論が可能な設定になっている。
1995年、当時慶應神経心理学研究会を主宰していた鹿島晴雄客員教授(現)を中心に設立された、まさに臨床家・実践家のための研究会である。会員の内訳は医師が25%、コメディカルが75%で、現在事務局は当教室内に置かれている。
次回すなわち第24回認知リハビリテーション研究会は2014年11月1日、東京の研究社英語センター大会議室で開催される。

(村松太郎、2014.6.21)

logopenic型進行性失語から失行および意味記憶障害への展開
船山道隆(足利赤十字病院 神経精神科 部長)Funayama M, Nakagawa Y, Yamaya Y, Yoshino F, Mimura M, Kato M.
Progression of logopenic variant primary progressive aphasia to apraxia and semantic memory deficits.
BMC Neurol 13: 158, 2013.

近年、脳画像の発展や相次ぐ新しい病理所見の発見によって変性疾患に伴う進行性失語は注目を集めている。進行性失語は、非流暢性/失文法型進行性失語、意味型進行性失語、logopenic型進行性失語の3類型に分類できる。病初期には失語が中核症状であるが、変性疾患であるため徐々に失語以外の症状も呈するようになる。非流暢性/失文法型は経過とともにアパシー、対人関係の問題、脱抑制、常同行為、共感の乏しさ、自己洞察の乏しさなどが、意味型は意味記憶障害、共感の乏しさ、興味の狭小化および特定の事柄への没頭などと、両者とも主に社会行動面での問題が出現してくる。一方で、近年概念化されたlogopenic型の長期予後については、今までに報告はほとんどなされていなかった。
今回われわれは、発症から8年以上経過したlogopenic型進行性失語の3例(男性2例、女性1例)を報告した。3例とも50代発症であり、SPECTでは左側を中心とした側頭-頭頂葉接合部を中心に相対的血流量の低下を認めた。3例とも初期にlogopenic型進行性失語を呈し、数年後から観念運動失行、さらに概念失行が出現し、発症後5~9年後には家族や親戚が認知できない人物認知の障害や異食症が出現した。エピソード記憶障害は3~4年ほど経過してから出現したが、本3症例の中核症状ではなかった。この経過は、失語から失行、さらに意味記憶障害に至ったとまとめることができた。
近年の神経病理研究からは、logopenic型進行性失語の約2/3がアルツハイマー病であることが判明している。われわれの症例は、昔から言われている失語・失行・失認を伴いやすく経過が早い若年発症のアルツハイマー病であった可能性が高い。本研究から推察すると、logopenic型進行性失語の一部は、このタイプのアルツハイマー病である可能性が高い。

(船山道隆、2014.5.8.)

解説 精神疾患解明の真髄

Logopenic型進行性失語。聞き慣れない病名だ。まず “logopenic”。ロゴ・ペニック。logo-は「言葉」、penicは「不足」を表すギリシア語である。「進行性失語」とは、何年もかけて徐々に症状が進んで行く失語症である。失語症といえば脳血管障害によるものが典型的だが、脳血管障害によるものでなく、かといって脳炎や脳腫瘍などでもなく、徐々に言葉が失われていく経過を取るケースがある。最初の報告は1892年のピック Pick によるものだが、20世紀後半になってこうした症例が続々と報告されるようになった。これが進行性失語である。原因は不明だ。不明の原因により、脳のある部位から萎縮が始まるのだ。始まりは、言語にかかわる部位のごく一部から。そして徐々に言語中枢を侵す。さらには脳全体に萎縮が及ぶこともある。
Logopenic型進行性失語は、第三の進行性失語と呼ばれる新しい概念である。言語症状としては、特に復唱の障害が目立つのが特徴だ。加えて高度に専門的な言語症状分析により、一つの疾患単位としてまとめられた。21世紀に入ってからのことだ。だが経過は不明であった。徐々に進行するというが、どのくらいの速度で進行するのか。言語以外の症状はどのように推移するのか。最終像はどうなるのか。既存の変性疾患の中に分類できるのか。これらはすべて不明であった。「logopenic型進行性失語から失行および意味記憶障害への展開」と題された船山論文は、8年間という長期にわたって3症例を綿密に観察し、この問いに対する答えを提示したものである。
長期経過の研究がなぜ必要なのか。もちろん一つには、患者さん本人や家族のためである。そしてもう一つは、疾患の本質の洞察のためである。症状とは、点と線である。点とは横断面、すなわち、ある一時期を切り取った時に、そこに見られる症状。線とは縦断面、すなわち長期経過だ。操作的診断基準が席捲している現代の精神医学では、点だけが過剰に重視されている。もちろん点も重要である。点の把握だけでも、容易なことではない。失語症の言語症状分析と同等の高度な診断技術が、どんな精神疾患の横断面の症状の把握においても求められる。しかし如何に精密に分析しても、点だけを見ていたのでは限界は明らかだ。点と線が揃って初めて、疾患の本質に接近することができる。脳器質疾患の症候を精密に分析するという、神経心理学で綿々と継承されている方法論は、精神医学の本来の診断学そのものである。
船山部長は、logopenic型進行性失語症の症状を精密に分析し、さらには長期経過を明らかにすることにより、この疾患の原因論としてのアルツハイマー病との繋がりを示した。「logopenic型進行性失語症の少なくとも一部は、若年型アルツハイマー病である」
結論として示唆されているのは、あくまでも淡々とした事実だ。だがそれを示した船山論文は、精神疾患の真の解明方法はこうあるべきだというモデルを見事に実践してみせた仕事である。

(2014.5.27. 村松太郎)

脳損傷後にみられた芸術的能力の開花に関する研究
高畑圭輔 (放射線医学総合研究所 博士研究員)Takahata K, Saito F, Muramatsu T, Yamada M, Shirahase J, Tabuchi H, Suhara T, Mimura M, Kato M.
Emergence of realism: Enhanced visual artistry and high accuracy of visual numerosity representation after left prefrontal damage.
Neuropsychologia 57: 38-49, 2014.

精神医学においては、疾患による認知機能の低下や異常など、主に障害としての側面が強調されています。これは、医学として当然のことですが、一方で、脳損傷や前頭側頭葉変性症(FTLD)を発症した後に、特定の能力が向上する例が稀ながら存在することが、神経心理学の分野で古くから報告されてきました。このような、精神神経疾患によって引き起こされる、逆説的とも言える現象は「獲得性サヴァン症候群」と呼ばれており、優位半球の前頭葉の局在病変によって生じることが多く、絵画や造形などの視空間認知に関連した芸術的技能で開花する例が多いことが知られています。近年、獲得性サヴァン症候群に関する報告が、国内外で相次ぐようになりましたが、脳局在機能の障害により芸術的技能が向上する機構は長らく不明のままでした。特に、芸術的技能の中でも写実能力が向上した症例が多いという点は、獲得性サヴァン症候群にまつわる謎とされていました。
本研究は、加藤元一郎先生のご指導の下、大学院時代に行われたもので、左前頭前野の損傷後に絵画能力が亢進した症例においてサヴァン様の機能亢進の背景機構を探った研究です。以前から、我々は「優位半球の前頭葉が損傷することにより、同部位が抑制していた非優位半球の後部脳の機能が解放されることによって写実能力が亢進する」のではないかと考えておりました。今回、幸いにも患者さんにご協力して頂けることになり、神経心理検査、認知心理課題、脳血流シンチ、専門家による絵画技能の評価などの複数の手法を組み合わせることによって仮説の検証を行いました。詳しい結果については、論文を参照して頂ければと思いますが、患者さんにおいて前頭葉機能の低下にも関わらず写実的な描画技術が高まっていたこと、健常対照群よりも正確な数量弁別能を示したこと、非優位半球の頭頂葉の血流が亢進していたことなどが確認され、我々の仮説が支持されることが示されました。
本研究の成果は、獲得性サヴァン症候群の病態解明につながるだけでなく、脳損傷や認知症患者さんのリハビリテーションにも役立てられるのではないかと考えています。今後、症例を積み重ねてさらなる検討を加えていきたいと考えています。

(高畑圭輔、2014.4.9.)

解説 覚醒する才能

脳が損傷されれば、脳の機能は損われると思うであろう。
多くの場合はその通りである。ところが、稀ではあるが、脳損傷によって逆に特定の脳機能が活性化することがある。眠っていた才能が開花するといってもよい。それが獲得性サヴァン症候群と呼ばれる現象である。
サヴァン症候群とは、一種の天才である。19世紀に、先天的な知能低下を持ちながら特定の領域(たとえば記憶力)に突出した能力を持っている複数のケースが「idiot-savant(白痴の天才)」と名づけられて発表されたのが最初である。有名なサヴァンとして、映画『レインマン』のモデルとなったキム・ピークを挙げることができる。彼は深刻な中枢神経系の異常が存在するにもかかわらず、過去に読んだ約9,000冊の書物の内容を正確に暗記しているという驚異的な記憶力を具えたサヴァンとして知られている。
サヴァン自体、稀な疾患であるが、獲得性サヴァン症候群はさらに稀である。獲得性サヴァンとは、成人になってから何らかの脳損傷を被った結果、何らかの優れた機能が現われるケースを指す。なぜこのような現象が起きるかは謎であった。これまでLancetなどにごくわずかな症例報告があるが、いずれも「獲得性サヴァン症候群というケースが存在する」という記述のレベルを超えるものではなかった。

高畑博士が2014年にNeuropsychologiaに発表したこの論文は、獲得性サヴァンの謎に挑んだものである。提示されているのは、脳損傷の一例についての詳細な検討で、この男性は脳血管障害で左前頭葉に損傷を負った後、見事な絵が描けるようになった。そこで、
・脳血流の測定
・前頭葉機能、視覚的数量認知課題等の神経心理学的検査
・脳損傷前に描いた絵と脳損傷後に描いた絵の質の比較(東京藝大の27人の専門家に定量的評価を依頼。結果は、「写実性」「色彩」の項目が、脳損傷後に改善)
などを行った結果、右前頭葉、楔前部、頭頂間溝の血流増加が、描画能力等に関連することが証明された。長年にわたり謎であった獲得性サヴァンの脳基盤の解明に明るい光が差したのである。

この高畑博士の論文は、
The human species is the sole animal that can draw a picture.
(人類は、絵を描く唯一の動物である)
という一文から始まっている。
人間だけが持つ、絵を描くという機能。高度に複雑化した人間の脳が可能にした機能は、ほかにも数限りなくある。その脳の奥底にあった機能が、左前頭葉の損傷によって開花したというのが、この高畑論文の主旨である。
進化の過程で静かに眠りにつき、タイムカプセルのように覚醒を待っている才能が、おそらく人間の脳にはまだまだあるに違いない。

(村松太郎、2014.4.23.)

統合失調症の自我障害についての実証的研究
前田貴記(慶應義塾大学医学部精神神経科講師)Maeda T, Takahata K, Muramatsu M, Okimura T, Koreki A, Iwashita S, Mimura M, Kato M.
Reduced sense of agency in chronic residual schizophrenia with predominant negative symptoms.
Psychiatry Research, 209(3): 386-392,2013

統合失調症において、自我障害は中核的な症状と考えられている。近年、認知科学において自己意識を研究するパラダイムとして、sense of agency (SoA)が発展してきており、その側面から、統合失調症の自我障害についても検討されてきている。我々も、統合失調症におけるSoAについて実証的に評価するために独自のタスクを考案し研究をすすめてきた。本論文では、慢性期で陰性症状が前景の統合失調症において、SoAが低下していることを示したものであり、臨床的にはとらえにくいものの、陰性症状が強い患者においても自我障害が潜在していることが、実験的には示された点で重要である。慢性期で陽性症状が前景の統合失調症においてもSoA異常がみられるものの(Maeda et al., 2012)、異常パターンは陰性症状群とは異なっている。以上より、SoA異常は、統合失調症のtrait & state markerとしての意義があるかもしれず、今後、急性期、さらには前駆状態(schizotypal personality disorderを含む)について検証していきたい。

(前田貴記, 2014.3.12.)

解説 統合失調症の謎を解く: 精神病理学と脳科学の出会い

幻聴、妄想、思考障害、・・・統合失調症の症状として挙げられるものは数多くあるが、それらの基底にあるとされるものが自我障害である。従来、記述的な精神病理学の領域だけに棲息していたこの自我障害をサイエンスの対象とし、統合失調症の本質に迫るのが前田貴記講師のテーマで、そのために彼が中心となって開発したツールがSense of Agency Task (SoAタスク)である。
Sense of Agencyとは日本語では自己主体感と呼ばれており、健常者にとっては自分の思考や行動の主体(agency)が自己であると認識されるのは当然すぎるほど当然であるが、統合失調症ではこの認識が崩れたり、さらには外界の現象の主体が自己であると認識されたりする。これがSense of Agencyの異常である。
たとえば、統合失調症の症状であるさせられ体験は、自己の行動が他者にコントロールされると感じられるもので、まさにSense of Agencyの異常である。また、統合失調症の最も代表的な症状ともいえる幻聴も、元々は自らの脳内に発生したものであるはずの思考や声が、他者のものとして感じられるものととらえれば、やはりSense of Agencyの異常であるといえる。
前田講師が中心となって開発したSoAタスクは、ベッドサイドで簡便に行える検査で、パソコンのディスプレイ上の光点の動きが、自分自身のキー操作によるか否かの主観的判断を問うことによって、Sense of Agencyをみるものである。このタスクのデビューは2012年の論文:
Maeda T, Kato M, Muramatsu T, Iwashita S, Mimura M, Kashima H.
Aberrant sense of agency in patients with schizophrenia: forward and backward over-attribution of temporal causality during intentional action.
Psychiatry Res. 2012 Jun 30;198(1):1-6.
である。
本論文 Reduced sense of agency in chronic residual schizophrenia with predominant negative symptoms. はそれに続く第二弾に位置づけられるもので、統合失調症におけるSoA減弱を実証的に示した世界初の論文である。
一方で、SoAタスク施行時の脳内活動をfunctional MRIで示した論文、
Fukushima H, Goto Y, Maeda T, Kato M, Umeda S.
Neural substrates for judgment of self-agency in ambiguous situations.
PLoS One. 2013 Aug 19;8(8):e72267.
も2013年に刊行している。
SoAタスクを用いたこれら一連の研究は、自我障害という、統合失調症の中核ともいえる症状、しかし従来はサイエンスの対象になりにくかった症状を、実証的研究の射程に捉えたという点ひとつをとってみても、非常に大きな意義を有するものである。近い将来には、統合失調症の前駆状態の正確な評価への応用も期待される。
なお、統合失調症の自我障害の現在を前田講師が解説したものとして、
日本統合失調症学会監修『統合失調症』
第24章統合失調症の自我障害の認知科学
がある。(2013.6 発刊)

(村松太郎, 2014.3.30.)